文章を書くということは、二つに分類されると思う。
ひとつは、自分だけのための文章。もうひとつは、誰かの視線を意識した文章。

自分のためだけの文章は、他の誰かに見られたり、評価されたりしないもの。これには、正直な気持ちが書ける。また書き出すことによって、自分の感情を再確認できる。
「書く」ということの力は思っているより大きなものだ。目標も、書き出すことによってより明確になる。自分が思っていることを客観視したり、そのための方法を考えることもできる。書くと自然と気持ちが動いていく。

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私は昔から、文章を書くことが嫌いだった。自分の感情を文字に落とし込むだけなのに、良し悪しをつけられてきたからだ。
学生にとって文章を書くということには、いつだって評価が付き纏う。作文や感想文、自由研究、レポートなど、与えられた宿題は全て評価対象になる。
思い出してみてほしい。
小学生の頃から、感想文を書けば良かった人の文章がみんなの前で紹介されてきた。良い視点を持った人、良い感性を持った人、良い文章を書いた人……。これらが評価されていく中で、私はいつからか、評価される文章を、綺麗な文章を書くべきなのかと思うようになった。
そんな私が文章を書くことが嫌いになった出来事は中学生に遡る。

合唱祭の後、クラスのみんなで感想文を提出し、先生が良いと思ったものが教室の後ろに貼り出されたことがあった。それまでそういう類の「優秀な文章」に選ばれたことは一度もなかった私の感想が、そこには貼られていた。
しかし私の感想文が取り上げられたのには、理由があった。隣には、私と相反する内容の感想文があったのである。

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私が書いた感想文は、「合唱祭は成功であった。皆が頑張り、良いものになった」というような内容であった。忘れもしない、私だって成功だったとは思っていなかったが、綺麗事を書いたのである。
もう一人の感想は「練習不足、もっと良いものにできたはずなのに」と反省したような素直な文章。先生は同じ合唱祭を通しても、人によって感じ方がここまで違うということを紹介したかったのだろうが、これは公開処刑だった。
これまで自分の感想を素直に書いてきても一度も評価されたことがなかったのに、たった一回、軽い気持ちで書いた綺麗事の感想がみんなの前に晒されたのだ。

これがトラウマになり、もともと評価されない自分の文章に自信なんてなかったのに、さらに文章を書くことが嫌いになった。自分の感想に優劣をつけられることに違和感を感じていた。

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書くということは素晴らしいことなのに、評価されることを意識してしまっては勿体無い。良い成績をとるためには、先生から評価される文章を書かなければならない。先生に気に入られる文章を書かなければならない。
本当にそうだろうか。

文章を書くということは、もっと自由であるべきだ。
今なら分かる。他人からの評価が全てではないこと。大切なのは、「気持ち」である。
レポートにせよ何にせよ、真剣に調べて、考えて書いたらそれでいいじゃないか。感想なんて人それぞれでいいじゃないか。他人の目ばかり気にして自分の気持ちを表現できないなんて勿体無い。
このエッセイを「書く」ことによってそんな気持ちが芽生えた。やはり「書く」ことの力は思っているより大きなものだ。