私は文章を書くことが得意だと思っていました。中学生までは。
「少年の主張」だったり、「いじめ」についての作文でクラスや学校の代表に選ばれたりしたこともありました。
だけど大学生になった今、私は文章を書くことが苦手に、下手になったように思います。
それがなぜなのかは自分でもわかりません。でもきっと、その原因の1つは自分にはない表現力や語彙力に惹かれ、憧れる一方で、自分にはそういう風に書くことはできないと思ってしまうからなのだと思います。

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高校生になって、スマホを持つようになり、読書だけではなく、InstagramやTwitterといったSNSを通してより一層文章を読む機会が増えました。そんな中で素敵な文章、面白い文章をたくさん目にするようになって、その度に私は、自分もこういう文章を書けるようになりたいと思い、何度か文章を書いてみたことがあります。でもどうしても納得いかず、途中で書くことを辞めてしまうのです。

今、こうやって文章を打っていてふと思ったことは、最近の私は何を書きたいか、何を伝えたいかの前に、あの人みたいに書きたいとかああいうかっこいい言葉を使いたいとかそういうものが先走っていたということです。私が考える「文章を書くということ」は、本来、何にもとらわれずに、ただ純粋に思いを言葉にするということだと思うのです。

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大学生になってレポートという課題をやるようになって、また新たな文章の書き方に出会いました。これは、何を書くか、何文字で書くか、情報源はどこなのかなどといった条件が非常に多く、限られた中で自分の言葉で書いていくものです。
初めは慣れない形式や書き方に苦戦していましたが、だんだんと慣れてくるとある程度すらすらと書けるようになりました。

一見、ただの課題としてやるレポートに綴られる文章は手紙や作文とは違って、思いを伝えるというものではないと少し前まで考えていましたが、今振り返ってみると、レポートは先生に自分の考えの根拠を伝えるために資料を集め、整理し、わかりやすくそして論理的に文章をまとめる。この一連の流れも結局は自分の思い(考え)を伝えるもので、それらと変わりはないものに感じられてきました。

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先ほど例にあげた手紙にもまた、いろんな種類があります。お礼の手紙、謝罪の手紙など数えたらキリはないですが、私が今、手紙と聞いてぱっと思い浮かぶのはファンレターです。
私は中学生になって初めて推しという存在ができました。今は推し活が盛んで、あらゆる界隈で盛り上がりを見せていますよね。ここ数年で推しという存在ができた人はかなり多くいるのではないでしょうか。

みなさんは、ファンレターを書いたことがありますか?私にとって推しという存在はこの世で一番幸せになってほしい、誰よりも大事な人で、生きる意味をくれる人です。
そういう存在に送る手紙は何を書けばいいのかわからなくて、私は何度も書こうと思っては、途中で断念してきました。

そもそも読んでもらえるかわからないのに、何をそんなにためらっているのだろうと思う方もいらっしゃると思います。読んでもらえるわけがないことなんてわかっているんです。でも、あれこれ考えてしまうのがオタクなのだと私は思っています。

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そんな推しが今度、グループを脱退することになりました。最初は戸惑いや悲しみ、信じたくない気持ちで心が荒れていました。
でも、冷静になってみて、こんなにたくさん幸せにしてもらった人に対して、まず伝えるべきことは感謝の気持ちであると気づかされました。そしてそれを伝える一番いい方法はファンレターだと。

ここまで私が綴ってきた言葉や文章は、エッセイと呼べるのかわからないけど、私の思いを何も考えずにここまで書いたのはとても久しぶりでした。
この「文章を書くということ」というタイトルをテーマに自分の気持ちに向き合い、整理してみて、久しぶりに文章を書くことが楽しいと思えました。そして、今まで気づけなかった気持ちにも、言葉の偉大さにも気づくことができました。
そんな今だからこそ、混沌とした自分の気持ちと向き合って、ファンレターを書いてみようと思います。5年分の思いを込めて。