学校という四角の中に詰め込まれた全国の学生を、私は尊敬する。
お金を積まれても、時給が発生しても、小中高には戻りたいと思わない。

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私が学生時代に毎日学校へ通っていた理由は、ある日突然訪れる「2人組を作って下さい」という恐怖の宣告の為だけであったように思う。
大人になった今では小さな事に感じるが、当時の自分には、あのくだらない四角の中に起こる世界が全てであり、そこでの居場所をなくすことは"終わり"を意味していた。

学校というモノが社会から切り離された特殊な世界だという事を子供の私は知らなかった。
学校は社会の縮図とは少し違うと思う。
いじめやスクールカーストの経験は人を学ばせはしても、強くはさせない。
身に付いたのは強がる術だけだったと思う。

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学校の評価というモノは決められたルールの中にあり、教員の価値観に収まるものでなければ評価の対象外だった。
勤勉は美徳で怠惰は悪、という古い時代からの洗脳は私を決して自由にはしてくれなかった。
道徳教育をしながら個性を否定する指導への矛盾に日々、静かな怒りを溜めていた。
集団主義の象徴とも言える学校指定の制服に、無意味で多すぎる校則。学校は生徒を扱いやすいように平均化し、全ての人間を均一な学生として作りたがっていた。

子供の私にとって、教員の言葉は全てが真実として吸収された。
教員からの何気ない言葉に人生を左右され、一生をその傷と共に生きている人も少なくはないと思う。
物事を皮相的に判断する浅はかな教員が憎かった。

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暗記型教育の日本では、自分の意見を持つ習慣がない。それが成人まで続くのだから、立場のある人の言葉や公式文書や報道などの情報に何の疑いを持つ事もなく踊らされるのも当然に見える。
他国では、インフルエンサーマーケティングに日本ほどの効果は出ないらしい。その理由は、日本人が受け身であるからなのだという。

日本で働く海外の友達も言っていた。
「日本人への販売は簡単だよ。"皆さんもコレを買われてますよ"って言えば買ってくれるんだから。何で皆んなと一緒だと安心なんだろうね。僕の国じゃ全く意味のないセリフだよ(笑)」

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異物が直ぐに処理される学校という社会の中では、与えられた自分という役割りを演じるしかなかった。クラスの人気者こそが正しいのだと勘違いさせてくれる逃げ場のない世界。人気者の正しさは私には苦痛でしかなかった。

そして表現も、私にとって自由なモノではなかった。全てには見えない決められたルールが存在し、ルールの中でだけ自由は有効化される。
教員は想像の範囲内の、彼らにとって都合の良い個性だけを愛した。

学校は競争や圧力や規則に縛られる場所だった。全ての人が居続けられる場所だとはとても思えない。無意味で不必要な努力ほど人間を消耗させるモノはないのだから、行きたい人だけ行けば良い。

社会に良い影響を与え、自分は教える側の人間である、と信じて疑わない教員の図太さは私の心を毎日傷つけた。
自分の弱さを認められない人間が他人の弱さを理解できるはずはなく、彼らを通して尊敬しなくても良い大人が存在する事を学んだ。
ここにしか通用しない立場を利用し、大きな態度を取る教員という想像力の乏しき生き物。
彼らを見つめる目の中に来世まで怨んでやる、と何個の目が無意識に呪いをかけただろうか。

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正しい事が正義とは限らない世の中で、教員は自分が見ている世界を正しいと信じていたのだろうか。正しさは主観によって決まるもので、正義は善意の強要でしかないと思う。
自分にとっての善が他人の悪になり得ることを、教員は知らないようだった。
真面目な人間は義務が得意だと聞いた事がある。一方で遊びや贅沢といった何かを楽しむ事がとても苦手だと。

"子供らしさ"が大人の作った幻想であるように、"きちんとした大人"という存在も幻想だ。だが、子供の時にはそんな事を思いもしない。そのファンタジーに子供の心は傷つけられる。

変化に対応出来る人間ほど新しい価値観を柔軟に受け入れる事が出来ると感じる。
考え方が硬化している人間は時代に取り残されることに怯え、価値観の変化を問答無用で否定する。

「人は変わらない。誰かを変えたいなら自分が変わるしかない。人に期待をするな」等と、昔から沢山聞いて来たが、これは国に関しても同じ事が言える気がする。
今はもう大人の奴隷ではない。
無駄な文句を垂れるくらいなら動けば良い。
私は近い将来、海外で暮らす事を計画している。