「将来は何になりたいの?」
「大人になったらどんな仕事をしたい?」
「未来の夢を教えて下さい」
多くの人が子供時代にこのような言葉を数えきれないほど浴びて育ってきたと思う。
私は、子供の頃からこの手の質問が大嫌いだった。
質問をする大人側の真意や希望を無意識に考えては、神経を擦り減らせてきた。
目の前にいる大人は、何を言ったら満足するだろうか、どんな答えを正解と定義し、私に求めているのだろうか、と。
この質問をする大半の大人は具体的な答えを持たない子供に対し、嫌な反応を示す。
答えを持たない事を許さず、マイナスな印象を勝手に押し付ける大人たちが、私は気持ち悪くてならなかった。
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小学生になると、図書室で「13歳のハローワーク」を手渡され、ひたすらにページをめくらされた。教員は無理矢理にでも全生徒に就きたい仕事を持たせたいようで必死に見えた。
税金、性教育、いじめ、DV、モラハラの対処法や相談手順、お局との賢い関わり方、マルチ商法、ネズミ講、ギャンブルの怖さ、失恋の立ち直り方、仕事の辞め方、鬱との向き合い方、etc……。
私が学校で習いたかったのは、こういう種類の事だった。
私は学校や大人に多くを求め、期待し過ぎていた。
子供時代の私は、就きたい仕事について考える時、いつも"人のためになる仕事"と"自分のしたい仕事"というものの間に悩まされていた。
"自分のしたい仕事"というものを選ぶ事は自分勝手で我儘なエゴのような悪いものに思え、"人のためになる仕事"はたとえ偽善であったとしても正しい事であるように思えた。
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だが、その考えは間違っていたのだと大人になり、社会に出てから気付いた。
"人のためになる仕事"というものは、その仕事を本人が本当に好きで、楽しくて就いているのなら素敵な事だが、好きでも楽しくもないのに、人のためになるのだから、というだけの理由で本当の気持ちに蓋をして就いていると自分でも気付かぬうちに愚痴やストレスという形で他人に悪影響を及ぼす事になる。
つまり、誰のためにもなれず、寧ろマイナスな影響を人々に与えてしまう。
一方、"自分のしたい仕事"に就いている人は、自らがその仕事を好いて楽しんでいるがために、他者にも無意識レベルで幸せなエネルギーを勝手に与えている。
それは側から見たら、人の役に立っているとは思われないような仕事かもしれない。しかし、一緒に働く仲間や関わる人に幸せを与える存在になれるという事は、とても影響力が大きく、素敵なことだ。
つまり、無意識のうちに人の役に立つ仕事をしている。
有名人やスポーツ選手に対し、「あの人は好きな事だけして楽して稼いでいいよね、羨ましい」等という発言をする人もいるが、これは自分に対する不満の反応であり、自分が嫌な仕事をして苦痛を感じている中で他者が楽しんで仕事をしている事が許せないという事なのだろうが、我儘で想像力に欠けた思考に思える。
楽しむ事を悪とし、我慢を美徳と捉えた古い価値観の呪縛に苦しんでいる証拠だが、それによって他人を傷つけてしまうのであれば自分の好きな事をしてほしいものだ。
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人がみんな、自分の好きな事を出来ていたら、人にも優しくなれるのだと思う。
他人との比較は、自分が満たされていない事から始まる。
私が自分の周りにいる素敵な人たちを見ていて感じるのは、自身が満たされている人は他人の行動や言動にあれこれと口を出さないものだ、ということ。
逆を言うと、他人が不快になるような口出しをする事は自分が満たされていない事を人に見せつけ披露しているような下品な行為に思える。
私は子供時代、大人たちを見ていて大人になりたくない、と思っていた。
それは日常で目にしてきた満員電車に揺られるやつれ顔の大人や、教員、両親、映画やドラマに出てくる大人等から見える"大人"というものに魅力を見出すことが出来なかったからである。
でも私は、子供たちの目にそんな大人としては写りたくない、と思っている。
好きな時に起きて、好きな時に寝て、好きな仕事を好きな時にして、好きなものだけを食べて、好きな人と好きな場所で過ごす。
大人になる事は無限大の可能性を秘めた自由を手にする事なのだと、子供たちに夢見て欲しい。