文章を書くということ。私にとってそれは、最近になって、ようやく意義が見いだせるようになったことである。
私は小さい頃、文章を書くことが苦手で、嫌いであった。小学校の時には、夏休みに宿題として課される読書感想文がとても嫌だったのを覚えている。
「本をたくさん読むだけの宿題があったらいいな」
これは夏休みの宿題の欄に読書感想文というのが書かれているのを見て、毎年私が「夏」を感じる瞬間に思う気持ちである。
読書をするのは好きだし、自分の中では色んな感情が溢れているのに、その感想を文章にすると上手く表現できないから、文章を書くことが嫌だった。
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文章を書くとなると、人の目に触れるということで、常に誰かに見られること、評価されること、で頭の中でいっぱいになり、読んでくれる人の意見に合わせなきゃ、相手の意見と違うことを書いて嫌われたくない、いう気持ちになってしまう。頭の中では自由に考えられることも、文章になると、常に第三者のことを考えてしまって、自分の個性を殺すような文章が出来上がってしまう。
その文章を見て、「あー、こんなことを書きたかったんじゃないんだけどな」といつも思っていたが、書き直す余裕もないので、しぶしぶ提出するし、添削して帰ってきたコメントを見ても、自分の真の気持ちを書いたものでは無いので、何も響かなかった。
だが、そんな文章を書くことに違う意味が見いだせるようになったのは、大学に入ってからのある授業だ。
大学に入ってからは、自分の好きな学問ばかりを履修していたので、どの授業も楽しかったのだが、やはり文章を書くとなると苦戦していた。
そんな時、ある授業での期末レポート課題について、先生は、「先生の考えに合わせなくていい、自分の気持ちを書いて欲しい。むしろ先生と違う意見を書いてくれると嬉しい」
と仰ったのだ。
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それを聞いた時は、先生の意見に合わせた方がいい成績が貰えそうだし、違った意見を書くことは、今まで授業をして下さった先生に失礼なのではないか、と思った。
だが、先生がそこまで言うのなら、自分の意見を書いてみようと、先生と少し違った意見であったが、評価されることにとらわれずに、文章を書き始めた。
すると、今まで人の何倍もの時間をかけていただろうレポートが一瞬にして終わり、尚且つ、自分の意見を文章にすることがこんなにも清々しく、楽しいものだと初めて気づいたのである。
また、文字数が2000字程度で仕上げなければいけないレポート課題であったが、3000字近くになってしまい、今までのレポート課題は、指定文字数ギリギリの、やっとのことで提出していたので、自分でも無意識のうちにここまで、書き上げてしまったことに驚いてしまった。しぶしぶ文字数を減らして提出した。
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数日後、先生からのコメントが返ってきた。その内容は、
「面白い考え方です。この歳になると、考え方が定まってきてしまい、このような新しい意見は新鮮です。もっと〇〇さんの意見を聞きたいですね」
という内容の文章であった。文章を書いて、褒められたことはなかったので、とても嬉しかったし、新鮮だった。その授業の成績は良く、文章を自由に書いて、いい単位が貰えるのは最高の気持ちだった。
それを皮切りに、私は、人に評価されることを念頭に置くのではなく、自分らしさを出すということを1番に考えて文章を書いている。あの授業のレポート課題を書いた時から、文章を書くことに対しての苦手意識が薄れ、抵抗感が無くなった。
偽りの文章を書いていた時には、空回りして失敗してしまうことが多かった。評価されるのは、今でも少し怖いし、緊張する。誰かの評価を全く受けないというのは、生きている中では不可能である。
文章を書くことを通して、「自分らしさを出して評価される」ということが、真に意味があることだと気付かされた。十人十色の意見があることが当たり前であるのだから、自分にしか書けないような文章を書き続けたい。