「○○ちゃんへ
あしたはいっしょにすべりだいであそぼうね ○○より」

幼稚園の頃、毎日のように仲の良い友人とお手紙を交換していた。その日のたわいもないこと、家でのちょっとした出来事、明日のこと、毎日のように会っている友人だから話せばいいのに、なぜかお手紙という形を選んで話していた。毎日違う便箋で、毎日違うシールを貼って、毎日同じ子に渡していた。

まだ文字も親と一緒じゃなきゃ書けなかった。語彙力も乏しく文法の知識もない。それでも3歳の私が「文章を書く」ということに触れていたことに間違いはない。

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小学校、中学校と授業でたくさん作文を書かされた。特に練習をしていたわけでもないが、文章を書くのが得意だった私はその時間が好きだった。何度か賞も取ったことがある。自分には文才があるのかもしれないと思ったこともある。

高校生で大学受験をする時、願書に志望理由を1校1校書かなければならなかった。志望校の合格判定に成績が届いておらず、切羽詰まっていた私は内心「合否に関係ないのになんで志望理由なんか書かせるんだろう」と思っていた。

大学生になりアルバイトを始める時、履歴書に「自己PR」という欄があった。「アルバイトで自己PR?就活でもないのに必要なのかな」という気持ちが頭をよぎった。

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少し人生を振り返っただけでも、なにかと文章を書かされてきた人生だった。それはきっと私だけでなく、大多数の人々が同じだと思う。
なぜこんなにも世の中は人に文章を書かせるのだろうか。

それには色々な答えがあるのかもしれない。その中の一つとして、私の答えは「その人の思いを受け取りたい」からだと考える。友人、先生、志望校、雇用先全てに共通して言えるのは、「対わたし」であるということだ。

「友人対わたし」「志望校対わたし」それぞれ今までの関係値は違えど、どれも相手はわたし自身なのである。だから世の中が文章を書かせる理由は、わたしという人間を知るため、関係を深めるためだと考える。

では、私たちが文章を書く理由はなんだろう。
今まで述べてきたことをもとにして答えを出すと、「自分を知ってもらうため」になるだろう。もちろんそれも間違いではない。
しかし、小説やエッセイは違う。これらは文章を通じて、読者の人生や思考、感受性に微動を起こすために書かれるものだと思う。

また、自分しか見ない日記に文字を綴る人もいる。そうすると私が考える文章を書く理由は「個人の脳内に生まれた考えや思い、ストーリーを脳外に記録として残すため」である。

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人間の脳はとても賢い。毎日色々な物事を見て、聞いて、無意識に記憶していく。その中でも特別心に残っていること、後に残したいことを文字として記録していくのだと思う。この「残す」ということが、文章を書く理由の根幹にあると思う。

もちろん一生は残らないだろう。幼稚園の頃友人に書いた手紙も、小学校で賞を取った作文も、高校で時間と不安に追われながら書いた志望理由も今はもう破棄されているのかもしれない。
だけどそれらを記録した事実は、記憶として私の中に残っている。今はもう読めなくても、文章を書いたことによって記憶できたその事実が残る限り幸せだ。

だから私はこれからも文章を書き続けたい。その時感じた自分の発想や感情を残すために。いつか自分や誰かが見返した時、その時の私という人間がどんな気持ちでどんなことを考えていたのかがわかるように。

記憶には留まりきることのできなかったことを、文章を書くことで記録として残したい。そしてその記録した事実を記憶として残したい。だから私は今後も文章を書くことはやめない。