私は、文章を書くのが好きだ。私を最も豊かにし、感動を与えてくれる行為だ。

かがみよかがみにエッセイを投稿し始めて2年3か月ほど経過した。投稿数は少ないものの、全ての文章が丁寧に紡がれたものであり、それらは我が子のように愛おしい。
だが、文章を書けなくなったことが2度ある。それは、昨年の11月と、今現在だ。もし時間があるようなら、それぞれの経緯を聞いてほしい。

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まず、昨年の11月のことについて。「家族に思うこと」で書く準備をしていた。家族に対して、今まで隠していた本当の想いを綴りませんか、という企画だった。

私は家族と暮らしていて負った傷と、家族自身が抱えているだろう傷について語り、どちらも癒していきたい、という内容で書こうとしていた。けれども、1000文字程度書き進めた草稿には、攻撃的な言葉がいくつも登場していた。責めたくないのに、どうしても非難するようにしか書けなくて、辛くなった。

エッセイは、文章は、エールでなければならない。私の紡ぐ言葉には、根底にエールがあると信じていた。それなのに、そんな私の生み出す文章が、誰かへの攻撃になってしまうのが、どうしようもなく罪深いものを産んでいるように思えて、そこから半年間、書けなくなった。

元気も無くなった。誰かを傷つけるような文章を、私は書いてはいけないらしい。

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次に、現在について語るが、その前に、私の特技を紹介させていただく。といっても、残念ながら過去のものかもしれない。

私の特技は、100文字で済むことを、1000文字で表現することだった。ただし、くどくど同じことを繰り返したり、中身の無い言葉は書かない。それが私の美学だ。冗長ともいえるが、豊かさだったのだ。

今の私は、逆だ。IT企業に入社し、エンジニアとして働いて10ヶ月が経過した。ビジネスメールや、日報、上司とのチャットのやり取りの中で、私は次のような特技を身につけてしまった。①結論ファースト、②簡潔に、③箇条書き……まさに、このような伝え方を。

もちろん、仕事では非常に好ましい情報の伝え方だ。事実の共有に読むべき行間など邪魔だ。私は、リモートワークに適切なコミュニケーションを覚え、上司から報連相ができるとよく褒められる。

だが、失ってしまった気がする。明確な言い方を避け、言いたいことを比喩の中に閉じ込める豊かさを。誰かに話しかけるように綴る喜びを。

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文章を書く練習が足りていないのは明白だ。でも、怠惰な私には、コンスタントにブログをアップするなど、夢の話に思える。
文章を書くことを仕事にして、また日頃から文章を書くようにしたら、豊かさを取り戻せるだろうか。それとも、今の仕事の延長線上に、豊かさを展開できる場所を探し、構築していくか。

文章を書くのが難しくなる時期もあるけれど、それを乗り越えて、なんとか綴る。完璧でなくてもいい。純度100%のエールでなくてもいい。自分が癒されるために、あわよくば、読んでくれた人の目線が1ミリ高くなってもらえるように、また少しずつ、言葉を紡いでいこう。

最後に、誰にとっても共通するような、文章を書くことの意味を考えてみたい。
突然大きなことを言うが、人生を辛くさせているのは、孤独感だと思う。孤独、というより、孤独感。実際に、あるいは客観的に見て孤独でなくても、孤独感を持っていたら辛い。それを解消するための文章だと思う。

アウトプットすることで、読んでくれる人と繋がることができる。
誰かの使っていた言葉を引用することで、その人と繋がることが出来る。
何気ない言葉を使うことで、その言葉が見てきた歴史と繋がることが出来る。
私たちはきっと、繋がるために言葉を紡いで、文章を作る。

私たちの態度や振る舞いは、出会ってきた言葉でできているから。使っていく言葉でできていくから。
できるだけ丁寧な言葉を紡ぎたい。ここに帰ってこられるように。また、ここから始められるように。