LINE、Insragram、Facebook、さまざまなSNSが普及する今、私がもっとも利用するのはTwitterである。
中学校に入学するにあたり、スマートフォンを買ってもらった私は、真っ先にTwitterをインストールし、作ったお菓子の写真を投稿したり、友人のツイートに反応して会話をしたりと、どっぷりとその沼につかった。

中学1年生から大学3年生である今までTwitterをこよなく愛してきた私だが、ツイートする内容はその時々により大きく変化している。思えば140字という制約の中で、自分の考えや気持ちを詰め込み投稿することで、心の整理をしてきたのかもしれない。

中学1年生、2年生まではTwitterを利用している友人が多く、タイムラインを開けばいつでも誰かのツイートを見ることが出来た。しかし中学3年生になり、受験シーズンに突入すれば自ずと人が減り、タイムラインにはいつも自分のツイートが流れるだけになった。

◎          ◎

私は高校受験のために塾に行くことをしなかったため、塾というコミュニティがなかった。学校に行けば、同じ塾に通う友人同士による塾での出来事やテストの話が嫌でも耳に入ってきて、疎外感と塾に通う人たちに置いて行かれるという焦燥感がつのった。

夏休みに入り、Twitterでリアルの友人との交流が出来なくなった私は、ネットで友人を作るようになった。好きなバンドであったり、好きなアニメであったり、どこか共通点を持った、年齢も性別も知らないようなTwitterユーザーと沢山繋がり、趣味用のアカウントのフォロワーは1000人を超えた。

その頃には、お菓子作りや友人と遊んだときの写真など、自分の充実したリアルの写真や文章をツイートすることはなくなり、日々の不安や好きなものの最新情報に対するリアクションなど、自分の脳内で考えていることを中心に発信するようになっていった。

◎          ◎

漠然とした不安や焦りは恐ろしかった。友人や家族など、直接人に話すにも、自分自身の気持ちがわからないのでは話しようがなく、何より自分がなぜこれほどまでに追い詰められた気分でいるのかわからないことが気持ちが悪かった。周りに心配を掛けるのは避けたかったため、私は不安な気持ちをツイートするようになった。

するとどうだろう、猛烈に不安だった気持ちが、ツイート文を考え、書いて消してを繰り返し投稿した後には物凄く軽くなっていた。漠然として形の掴めなかった自分の感情が、具体的に何に対する不安なのか、それに対し自分はどうしたいのかまでクリアに見えるようになった。

◎          ◎


文章を書くということは一見、堅苦しくも感じる。それは小学校の夏休みに書かされる読書感想文や、何かにつけて何字以上、原稿用紙何枚以上、と条件付きで提出を求められるものという印象から来ているのかもしれない。

思ってもないことを頭で考えひねり出して書く1000字と、感情のままに文法の正確さにのみ注意して書く1000字とではまるで違う。しかし大切なときに、それこそ行事のたびに文章を書かされてきたのには意味があるのだと考える。

私にとってその意味とは、書くことで頭の中に散らばる情報を整理整頓し、漠然としたイメージで出来た気持ちを具体化することであった。思考や感情は忘れるものだ。どれほど思い悩み、どれほど傷つき、どれほど高ぶって興奮しても、その瞬間の気持ちを何年も後にそのままの姿で思い起こすことはできない。文章で書き残すことは、何より詳細にその時々の気持ちを保存できる手段であり、また文章を書くという行為を通じて、自分の気持ちを整理することが出来る。

◎          ◎

140字という制約の中で、私はいつもその時の自分の内面を書き残してきた。自分自身の気持ちが掴めなくなったとき、1歩立ち止まり文章に書き起すことで、自らの気持ちを大切にすることが、私にとって私を大切にすることだ。