最近、眼鏡をかけていない自分の顔を好きになってきている。ちょっと前まで眼鏡がないと外に出られなかった私からしたら成長だ。
それが自分を自分として認められるようになったからか、メイクの技術が上達したからか、はたまた突然変異で顔面が変わったのかは分からない。理由はともかく自意識では確実に、以前の自分より眼鏡のない自分を受け入れられている。
その気持ちの変化の中には、私の大好きな『演劇』が切っても切り離せない。
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そもそも自分が眼鏡を外せなくなったのには理由がある。
眼鏡を掛け始めたのは小学校五年生だったと記憶しているが、その時の写真を見返してみると、そこに映る少女は決して可愛いとは言えない。目が小さくて一重でつっていて、肌は黒くて出っ歯で鼻も低い。
その頃のことを思い返してみたら、多分その時の私は別にそんなことは気にもせず、毎日が楽しかったと思う。だからこそ最初は『眼鏡を授業のときだけ掛けるかっこいい奴』になろうとしていたのだが、学年が上がるにつれて自分のコンプレックスが気になりだして仕方が無くなった。
それから毎日アイプチで二重を作って、目を大きくするマッサージをして、これ以上肌が黒くならないように外に出ることを嫌った。出っ歯が嫌だから笑うことが嫌いになって、口を開けて笑顔を作ることが出来なくなった。そして眼鏡を掛けるようになった私は、とうとう低い鼻と離れ目を隠すことが出来る『眼鏡』がない自分の顔に物足りなさを感じるようになった。
眼鏡を掛けて初めて『自分』になる。少し前までそう思っていた。
よく友達から冗談で「眼鏡が本体じゃん(笑)」なんて言われたりしていたが、あれは本当に冗談だったのだろうか。思い返せば確かにあの頃の私の本体は『眼鏡』だった。メイクが一通り終わって何だか物足りなくても「眼鏡かけたらいっか」と思っていたし、実際にそうだった。
眼鏡を掛けている私は多分人よりも可愛い。でも眼鏡を掛けていない私は人よりも醜い。この考えが私の心から離れなくなった。
眼鏡で変わることなんて所詮フレームの有無な筈なのに、その『所詮』であるフレームに、レンズに、私は依存していた。人って難しいもので、一度依存しちゃったら中々元には戻れない。
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私は演劇をしている。公演に出るには眼鏡を外さなければいけない。
眼鏡を掛けていない、本体がない『私のような誰か』がまた違う『誰か』を演じる。自分が演技しているはずなのに自分の心がどこにもない気がして途端に怖くなった。
だってそこに私は居ないんだから。眼鏡を外さなければいけないことよりも、こんな気持ちのせいで大好きな演劇を嫌いになろうとしている自分を不甲斐なく思って涙がとまらなかった。
そんな眼鏡依存症だった私を救ってくれたのもまた演劇である。
演劇を語ると長くなるので割愛するが、演技をしている最中に自我があってはいけない。自分の考えを起こしている時点で、それは自分であってその役には成り切れていないからだ。
つまり私が今まで眼鏡を外したくないと苦しんでいた気持ちは、役を演じるにおいて無駄だったのだ。
この事実は私の肩を軽くした。一種の諦めのような、不思議な自信が湧いてきた。演劇に触れて初めて、少しだけ自分の殻を破れたような気がする。仮面を被るようなイメージの演劇に、逆に殻を破られるとは。眼鏡の恩を返すという意味でも、ずっと演劇を続けて行こうと思っている。
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そんな私は今、あんなに肌身離せなかった眼鏡をどこかに無くしてしまった。
昔の私からすれば考えられない、ちょっとだけ嬉しいトラブルなのだが、やっぱり無いのは悲しいし心許ない。ので、早く出てきてくれることを切に願っている。