私は文章を書くことが嫌いだ。
口で話したり、身振り手振りで説明した方が相手に早く、わかりやすく伝わるからだ。それに加えて、私の字は綺麗といえるものではないし、女の子らしくない。
大学生になった今、文字を書いてやりとりすることは少ないが、バイト先で伝言を伝える時や、ノートを友達に見せる時などふとした時に、自分の文字を相手に見せる機会があるが、それが嫌いだ。

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小さい時からせっかちで効率を重視する性格は変わっておらず、そのせいでノートをとる時、問題を解く時など日常的に文字を書く時には自分が読める最低限の字で書く癖がある。

小学校2年生のある日、友達にノートを見せた。すると友達は「なんか男の子みたいな字だね。汚い」と私に言い放った。今では小学生の正直な感想として笑い話にできるが、当時の私は「見せてって言われたから見せたのに、なんでそんなこと言われなきゃいけないの」と怒りをおぼえ、ノートを他の人に見せることが嫌になった。そして女の子らしい字を書くために、友達の字を真似して書いてみたり、練習もした。
それから成長するにつれて、文字を書く機会も増え、字自体も人に見せられる程度のものになった。高校生になってからも、あまり人に字を見せることは好きではなかった。

しかしある日、学級日誌を書いた時、私の字に対して先生が「達筆でかっこいい字ですね」とコメントを残してくれたことがあった。私はとても嬉しかった。
一般的な女の子らしい字とは、丸文字でかわいらしい字のことを言うのだろう。私の字は今でも決して女の子らしくはないが、私の字なりの良さに少し気付けた気がしたし、女の子らしい字じゃなくてもいいのだと今までの自分も肯定できた気がした。

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文章を書くことに対して、私の意識が変えられた出来事がもう一つある。それは曽祖父の日記である。
曽祖父が亡くなってから遺品を整理してると、昔書いたと思われる分厚い日記が出てきた。曽祖父は優しくて、いつも温かいが寡黙な人だったので、どんな内容を書いていたのかとても気になった。
基本的には日常のことが書いてあった。曽祖父の字は綺麗とは言えず、どちらかと言えば達筆で全ての文字が繋がっているような、いわゆる「昔の人の字」であった。

私と似たような字だなと思いながらも読み進めていくと、「二人目の曾孫誕生」という題名と共に、いつもの日記よりも汚く、走り書きの文字が書いてあった。それは私が誕生した日のことだった。
書いてあった内容はもちろん、あの寡黙な曽祖父が嬉しくてたまらない、興奮している様子が字からわかる程だった。私の誕生を心から喜んでくれたことが、その字から伝わってきて私はとても嬉しく胸が熱くなった。

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人はなぜ文字を、文章を書くのだろう。文章を書くのは、手間がかかる。それに比べて、文章を打ったり、話すのは簡単にわかりやすく伝わる。それなのになぜ。
それは手間がかかるからこそ、手紙を貰った時は嬉しいし、手書きの文字からはその人らしさ、その人の思いが読み取れる。決して、打ち込んだ文字のように均一で綺麗な字ではないからこそいいのだ。
もちろん綺麗な字を書けることは、とても魅力的なことである。しかし文章を書くこと、文字を書くことの本当の目的は、綺麗に、女の子らしく、男の子らしく書くことではなく、その人なりの思い、個性を出すためだと考える。

私は文章を書くことが嫌いだ。
だけど、自分の字で相手に思いを伝えてみるのもたまには悪くないかな。