パレートの法則というのをご存じだろうか。
集団の報酬や評価はごく一部の構成員が生み出している、という法則だ。
社会の仕組みに当てはまるこの法則は、人間関係においても準用することができる。
2:6:2の法則。
2割の人間は自分を好き、6割は普通、2割は嫌いという考え方である。

◎          ◎

社会に出て、どうしても合わないという人間は確かに存在する。
それでも2割とは思えないほどの人々と円滑な関係を築くことができている。
物怖じせず誰とでも会話し、相手のスペースへとうまく距離を図りながら入る。
必要最低限の事務的な言葉に加え、労いの言葉が一つあるだけで相手は心を許す。
社会人としてうまく立ち回るため、という部分もありつつ、なんだかんだ人とは仲良くやっていきたいもので。

RESPECTという意味での好きを実現するためのごく普通なツールなのだ。
ただ、いつからか、仮面を貫通しそうなほどの過剰な熱量を供給されるようになった。

「今回はこういった状況ですので、このような方針でいきたいと考えています」
「わかりました。ではそれで進めましょう」
特別に対応したわけではなく、他の方と同様に対応したはずだった。
確かに世間話がお好きな方で、その間に楽しく談笑したのは覚えている。
いつもの日常の一つだった。
「先日の対応が嬉しくて、よかったらどうぞ」
「そんな大したことはしていません」
多少の申し訳なさを感じつつも、そう言って差し出されたお菓子は素直に嬉しかった。
それがお会いするたびに続くことになるとは思わずに。

◎          ◎

「睡蓮ちゃん、いつもの人から」
「あ、本当にすみません。皆さんで分けて食べましょう」
最初の数回は嬉しかった好意も、今では気を揉むものへと変わってしまった。
ついには私がいない場合は同僚が代わりに受け取るという状況にまで陥った。
「本当にお返しできないので」
そう言ってやんわりとお断りしたこともあったが、渡したいだけなのでの一点張り。
最近では直接お会いすること自体が億劫になってしまった。

こうなってしまった原因はある程度予想がつく。
私が社会人としての睡蓮とプライベートの睡蓮をきっちり分けていることが一つ。
仕事上で接している私の好意はRESPECTであって、LOVEやLIKEではない。
しかし好意の汲み取りに齟齬が発生すると、別種の好意が相手から帰ってくる。
少しならまだしも、別種の過剰供給は好意だとしても私を非常に苦しめるものとなってしまうのである。

もう一つは私の性格として、追うより追われたい派だということ。
元来、私は縄文系女子、狩りをしたい側だと自己認識している。
基本的に何かを与えたいという特性が、与えられることを基本的に苦手としている。
さらに、一度私に好意を向けた人には追うことをやめてしまうので相手からすると非常に困惑する、のだと思う。

◎          ◎

RESPECT、LIKE、LOVE。
好意というものは本来、ポジティブな意味合いで人同士を行き来するものだと思っていた。
自分もポジティブな意味で相手に与えてきたが故に、疑いもしていなかった。
一方通行の好意は、場合によっては相手を苦しめる瞬間があるということを。

同時に、私自身も知らぬ間に相手を苦しめる好意を与えたことがあったのかもしれない。
人から好かれるというのは非常にありがたいことで、感謝すべきという考えは変わらない。
そんなことを言えば贅沢な悩みだと後ろ指を刺されることもあるかもしれない。

せっかく人からいただいた好意に苦しまないよう、相手と同じ種類の、同じ熱量の好意を共有できるよう、自身の言動や行動をコントロールする意識を少しだけ持って生きていこうと思う機会となった。
せっかく好きになれたのだ。気持ちのいい好きを続けていきたい。