これは、私が生まれる前、私の知らない伯祖母がグレーな恋を清く強く貫いた話である。

伯祖母は、離婚してから一人で2人の娘を育てるべく、母親のママに加えて、飲み屋のママという肩書きを背負った。そこにお客さんとして来た男性が、この物語のもう一人の主人公である。

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2人の距離が縮まるのは難しいことではなかった。しかし、当時男性は結婚していた。互いに惹かれ合っていることが感じられながら、それを口に出すことも、ママと客の関係が変わることもなかった。正確には変えないよう努力していたと言っていいだろう。
やがて一人で稼いで娘達と生きていくのに辟易していた伯祖母は、お店に通っていた裕福な別の常連と籍を入れた。

その人が好きかどうかはさして問題ではなかった。その人が伯祖母を好きでいること、働かなくても生きていけることさえ約束されればいいと思った。投げやりにそんな大切なことが決められるほど、疲れ切っていたんだ。そう、当時を振り返って伯祖母は言った。

結婚に伴い、伯祖母は店をたたんだ。男性と会うこともなくなった。退屈なくらい何もない安泰な日々が始まった。
結婚生活がまだ幾許もしない頃、どういう経緯か男性についての噂を耳にした。彼の奥さんが亡くなったというのだ。

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彼を好きな気持ちを隠した一番の理由がなくなった。けれど、今度は、自分が同じだけの重さを抱えていた。すれ違ってばかりだった。
どうしてあの時、こんなに適当に、投げやりに結婚を決めてしまったのだろうかと何度も自分を責めたという。どうしても夫を好きになんてなれなかった。
当たり前だ。好きかどうかなんてどうでもよかったのだから。でも、好きだと思えない限り、伯祖母の心は救われないのだ。

救われないままみんな歳を取った。そうして私が生まれた。
私の知る伯祖母は明るくて気品があって優しい人だった。心の中でずっと葛藤を抱えていたなんてつゆとも思わなかった。

私が中学生になった春、伯祖母が倒れた。末期の胃がんだった。
これといった治療法もなく、ただ命が削れていくのに少しばかり抗いながら、来る時を待つ日々が始まった。

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そんなある日、娘がやり残したこと、会いたい人はいないかと伯祖母に聞いた。そこで挙げられたのがあの時の男性の名だった。
看病に努めてくれる現在の伯祖母の夫に申し訳ないと思いながらも、当時の伯祖母の心境を知っている娘と、妹(私の祖母)が色々な伝手を辿って連絡を取った。

そうして独身のままだった男性と何度か食事をした。2人きりというのは流石に気が引けるし、伯祖母自体も望まないというので、伯祖母の娘、私の祖母、そして祖母に連れられてまだ2人の関係を何も知らなかった私も同席した。

私には2人は友達のようには見えなかった。しかし、恋愛の匂いを感じたわけでもない。強いていうなれば、2人の間には、取引先と話すような、よそよそしさときちんとした格式高さがあった。

やがて外食もままならなくなった。食べることも難しくなり、血を吐くこともあった。それでも私の前では気丈に振る舞っていた。体調が悪いことも看護師や旦那さんからの又聞きだ。

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ある日、無性に会いたくなって、学校帰りに初めて一人でお見舞いに行った。伯祖母はとても喜んでいた。初めて二人きりになった病室で、伯祖母はしみじみと噛み締めるように言った。

「なつめ、尊敬できる人を選びなさいね」
どきりとした。普段、上品だけれど親しみやすい伯祖母に呼び捨てにされたこともなかったし、こんな諭すような話し方をされたこともなかった。

「おばちゃん?」
「お金がなくても喧嘩をしても、尊敬できる人なら大丈夫だから。恋人でも結婚でもそういう人を選ばないとだよ。あーあ、なつめちゃんみたいないい子、誰がお嫁にするのか私が品定めしたかったのに。ウェディングドレスも見たかったわ。この前街で素敵なドレス見かけたんよ」

「えー、そのドレス、私も見たかったな。どんなドレス?」
口では明るく返したけれど、心の中ではさっきの言葉がずっと引っかかっていた。何か、大切なことを伝えようとしていた気がした。でも、それが何かその時はわからなかった。
後になって、このグレーな恋の話を知った。あの時一緒に食事をした相手が恋をした男性だったなんて。

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おばちゃん、尊敬できればそれでいいって本当?旦那さんのことは尊敬してるんでしょ?なら幸せじゃないとおかしいよね?幸せだって言ってたけれど、後悔のない幸せだって言えるの?

聞きたいことは山ほどある。でも、それに答えてくれる伯祖母はもういない。
伯祖母が亡くなった年のお盆、お墓参りに行くと、そこには立派な花が入れられていた。親族の入れたものではない。誰からかはすぐに分かった。

伯祖母の秘め続けた想いは不誠実かもしれない。でも私はこのグレーな恋を非難できない。
好きだから言えなかったこと、好きだけど言えなかったこと。二人の間に吐き出せずに握りつぶした言葉はいくつあっただろう。それを思うと、どうしようもなく哀しくて切ないと思ってしまう。

だから、せめて2人の想いが誰も傷つけないように、お墓参りに来る旦那さんを傷つけないように、墓場まで持って行かれた秘密の花束を、私はそっと引き抜いた。