私のなかから段々と彼の存在がなくなっていく。

1年半くらい前。私はその人に「お付き合いしてみませんか?」と言った。
私は恋人というものがいたことがほぼなくて、彼となら「お付き合い」というものができるのではないかという淡い期待を抱いていた。
彼からの返事はノーだった。

◎          ◎

彼は50km離れた土地に住んでいたけど、私からしたらそんな距離は大したことがなかった。
彼からの好意は愛とか恋とかではなかったのかもしれない。それでも、私の気持ちが愛とか恋だったら、何かが違ったのかもしれない。
でも、私は彼に会いに行かなかった。
それは私のなかで、何がなんでも彼がいいという何かがなかったからだった。

世の中のカップルの始まりがすべて、そんな情熱的なものじゃないということは知っている。でも、始め方がわからなくて、誰からも手を差し伸べられたことのない私は、せめて彼と何かを始めるには私ががむしゃらになる必要があると思った。
結局、私は愛されなかったし、愛せなかったのだ。

◎          ◎

先日、その彼にLINEで、2カ月後にヨーロッパの某国に行くと伝えられた。
それは、とある場所に遊びに行く約束をしていたのに日程調整の連絡を返してくれていなかった言い訳だった。
「どのくらい行くの?」と聞いたら、4年だと返ってきた。「ちょくちょく日本に帰ってくるけど」と付け足されていたけど、そのちょくちょく帰ってくる間に私と会うわけじゃないのにと思った。
なんて返信しようか、と悩んだ。出発まで1カ月、彼に会いたい?と考えたけど、「いいね!」としか返せなかった。

いいなと思ってるのは本心だ。
ずっとヨーロッパのいろんなところを訪れたいと思っていた。20代前半は貯蓄なんかできないくらい目の前の生活が精一杯で、25歳のときに転職したあとはコロナが流行し、海外渡航というものが一気に非現実になった。

同時にストレスで貯蓄や旅行どころじゃないくらい体調を壊し、キャリアも積めず、振り返ると何をやっていたのだろうと虚しくなるような3年を過ごしてしまったと思う。
21歳のときに作ったパスポートは、これからたくさん海外に行きたいという気持ちを込めて、10年のものにした。なのにあれから一度も海外に行けていない。

◎          ◎

結婚もしないで30代を迎えることがほぼ確実になってきたと思った頃、このままなんとなく過ごしていたらすぐおばあちゃんになってしまう、ということに焦りを感じた。これから先の人生を考えたとき、ヨーロッパに何回も旅行に行くより、一度3年くらい住んで、そこを拠点にいろんなところに行けたらいいのでは?と思った。

日本のエンタメが好きだから、ずっと海外に住むということは想像できないけど、数年くらいならたぶん環境を楽しむことはできそうとイメージできた。
ずっと英語が苦手で海外に住むなんてことを現実的に考えたことなんてなかったのに、そのとき初めて海外に移住するにはどんな方法があるかを調べた。
それが数カ月前の出来事だった。

30歳まであと1年ちょっとある。まずはやっぱり渡航後も仕事をしなくても生きていけるくらい貯金を作るのは難しそうだから、今年一年は、苦手な英語の勉強に挑戦をして、30歳になるときもまだ同じ気持ちでいられたらワーホリのビザを取得しようと決めた。
だけど、そんなことも束の間で、29歳になる今、職場環境の変化によりまずは転職を、と転職活動を始めたばかりだった。

◎          ◎

海外転勤のある男の人と結婚してついていけたら楽なのになぁとか、そんなことを考えたこともあった。でも、そんな他人頼りなことは実現しないと思ったから行動しようと思った。
もし彼とあのときお付き合いをしていて、今回ついてきてほしいと言われたら、願ったり叶ったりだったと思う。

でも、そうはならなくて、この1年ちょっと、私が目の前のことにモヤモヤ悩んで足踏みしている間に、彼は着々と海外渡航のチャンスを掴むために頑張っていたんだなと思った。
私の時計はずっと止まってるのに、彼の時計はぐんぐん進んでいるみたいに感じた。

そんなことをまるっと含めて、海外移住の話なんかを説明する気にはなれなくて、「いいね!」としか言えなかった。

◎          ◎

彼の渡航までの間にせっかくだから会っておくかという選択は、私の手の中にある。初めて2人で飲みに行った日以来、一度だって彼の方から誘ってくれたことはないから。
急だけど、4日後の祝日なら予定が合うなという考えは頭をよぎった。
遊びに行こうという話をしていたから、彼はそのときこの話をしようと思っていたんだろうなと思う。でもその予定が狂ったから、LINEで先にこの話をした。

なんとなく事前に報告しとかなきゃという人のなかに自分がいたことをちょっと嬉しく思う一方で、彼にとって日本にいるうちに会いたい人のなかで自分はどのくらいの優先順位なのかということを私に委ねられるのは嫌だなと思った。

心の中で考えてみる。
このまま会えなかったら寂しい?
んー、どうだろ。
それが正直な気持ちだ。

◎          ◎

アラサーになって現在地を見渡すと、20代に何をしてきたかの成果が目に見えてくるようになると思う。
確固たるものが何もなくてまだまだ迷子な私と、夢に向かって邁進する彼。
純粋な気持ちで羨ましいなと思った。
でも、それだけだった。

彼と会いたいかと考えたとき、まぁ会えなくなるし、とりあえず会っとくか以上の気持ちにはならない。
時間は無常で、私のなかでも、それだけ彼の存在は小さくなっていたのだ。

とはいえもしかしたら、数時間後にはやっぱり渡航後に後悔するのも嫌だから会っておくか、と思ってLINEをしてるかもしれない。
そのときはそのとき。
願わくば私も、4年後には彼を驚かせられるようなまったく想像できなかった生活に身を置けたらいいなと思う。