私はもともと、読み書きと親しくなかった。
大学生になるまで本が読めなかったし、ことばを書くという行為にもこだわりがなかった。
そんな私がいま、ライターをめざして歩きはじめることにした。
なぜ「ライターになりたい」と思うようになったのか。
大学での学びと、社会運動が現在地に繋がったのだと思う。

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書くことに関して大学で学んだこと。
そのうちのひとつは、「正しい」ことばを使うこと。これは、大学のレポートを書く時に叩き込まれたことである。
「あなたの引用文、〇〇って書いてあるけど、本文は〇〇だよ」
「この活動団体、〇〇会じゃなくて、〇〇委員会ね」
大変初歩的なことだが、引用文は引用先のことば一字一句をしっかり写し取らなければ論文としていけないし、正式名称を間違えずに記載しないと読み手に伝わらなくなる。相手の魂がこもったことば、名前を一字一句間違えずに表記すること。書く行為の根底に、相手に対してリスペクトを持つことの大切さを学んだ。

他にも、ことばにこだわることの大事さを学んだ。
これは大いに友達の影響を受けた。
「私は母国語って言いたくない。母語の方が適当だと思う」
「彼氏・彼女じゃなくてパートナーってことばを選びたい」
「慰安婦か、ハルモニか……ずっと悩んでる」
どんなことばを使うのか、どういう意味を込めて使うのか。何度も考えさせられた。読み手や聞き手に誠意を持って伝えるためには、ことばにこだわることが大事なんだな。そう思った。

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こうして、書くことに対する基本的な態度が培われたように思う。だがしかし、これらの出来事はどれもレポートや論文を書く上で経験したことだった。つまり、私にとってのことばは私的領域、あるいは大学内を飛び出そうとはしていなかった。

私のことばと社会の結節点。それが社会運動だったのである。

大学3年の頃から、デモやマーチに参加するようになった。
ここで必要なのは、ことばだった。
「考えを書いてください。まとめて〇〇党に送ります」
「思いを書いたプラカードをご持参ください」
「あなたの意見をここに記入してください」
はじめ、私は、書けなかった。怖かったのだ。世の中には、自分と反対意見を持つ人が誹謗中傷や差別をすることがある。自分が書いたことばが部分的に取り上げられて、叩かれたら私どうしたらいいんだろう。自分のことばが世にさらされることが、怖かったのだ。だから、私は引用した。誰かのことばをそのまま書くことでその場をしのいでいた。

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そういうことを何度か繰り返すうちに、自分の中で、もっと自分のことばに自信を持ちたいと思うようになった。誰かのことばに頼って、社会を変えようなんて...…そんなもやもやが生まれるようになった。最初は短文から。「強行おかしい」「差別反対」。とっても短かったけれど、自分からことばを出せたことに嬉しさを感じた。こうしてやっていくうちに、FAXで送るA41枚分に、自分の意見や考えを書くことができるようになっていた。内容は誰かと似ているかもしれないけれど、一字一句同じことばを書く人などいない。ここに、自分のことばを持つ意義を感じた。

それにやっぱり、ことばが溢れる社会とは、健全な社会のありようだと思ったのだ。ことばのある社会が民主主義を可能にしていくと思っている。だからこそ、ことばを持ついち市民として、私は自分のことばを大切にしていこうと決めたのだ。

変革のためのことばを書く。民主主義のためのことばを書く。それが、私がライターになりたいと歩きはじめた原点だと思う。時間が経って、これまで来た道を振り返った時。今の私がもっていることば観と、未来の私が持つことば観は異なるかもしれない。何を生意気で雑なことを言っておるのだと言いたくなるかもしれない。それでも、ここに原点があることを、忘れたくはなくて。