私はもう、あのキッチンに立つことを望んでいない。
今更、何当たり前のことを言っているのだと呆れている。少し安堵してもいる。ようやく、私もその境地に辿り着けたのか、と。でも油断はできない。時々、あのキッチンに立ちたい思いの波が押し寄せて泣いちゃうんだから。

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あのキッチンで、私は彼と、ついさっきYouTubeで見た裏技を試すべく、一緒に和風パスタを作った。昼ご飯も2人でパスタを食べに行ったくせに、夜ご飯もパスタをせっせと作る。
別にチャーハンでも良かった。パスタの次の動画はチャーハンだったし、トマト缶なんて冷蔵庫に無くて、でも無いからと言って買いに行く気力もなくて、醤油ベースの和風パスタ。具材は冷蔵庫にあった青ネギとウインナー。
たぶん、チャーハンを作ったほうがいい。
それでも2人とも、パスタを作りたがった。お互い理由は言わなかったが、私はパスタのほうが初々しい私達に良いと思ったからだった。彼も同じ理由か、それか私がパスタが好きなことに気づいていたからかもしれない。
パスタそのものも、パスタをフォークに巻く動作も堪らなく好きだ。皿の上に広がっていたパスタがフォークでキュッとまとめられ、丸く小さくなった時、あちこちに散らばる幸せを小さく可愛く凝縮したような気持ちになる。口のなかで、それらは解けてまた広がる。生憎、あのキッチンにはフォークは無く、箸でパスタを食べた。

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途中で彼が立ち上がり、キッチンの方へ向かったかと思うと、冷蔵庫や電子レンジが稼働する音が聞こえて、そして、しばらくして彼が小走りで戻ってくる。湯気が立つ、見るからに熱そうな耐熱容器を持って。
「さすがに、あっためすぎでしょ。肉じゃが?」
そう言って私はしばらく笑っていた。
なんて可愛くて、可笑しい生き物なんだ、彼は。
しかし正直、こんなに長く笑ってしまうほど、面白いことではなかった。
数日前に、YouTubeを見ながら初めて作ったという肉じゃが。
ああ、先程、彼と初めて一緒に料理をしたが、こんなに綺麗ににんじんも玉ねぎも切ることができるわけがないことは分かる。
悲しくて、笑うしかない。
「食べる?」
「大丈夫。パスタでお腹いっぱい!」
2人で作った幸せな和風パスタでお腹を満たしたい。
 他の女の影を感じた瞬間、そいつを置き去りにできる女性になりたいものだ。そんなことを思いながら、食べ終わったお皿に水と洗剤を入れる。
リビングにいる彼が「次はチャーハンだな」と言いながら肉じゃがを食べている。
そうだね、次はチャーハンだね。それか、大好物とか食べたいものとか教えてくれたら次までに練習しとくよ……。

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彼は今、新しい住処で暮らしている。あのキッチンには、全く知らない人が立っているだろう。
あのキッチンは、私にとって非日常だった。
肉じゃがを作った彼女にとっては日常だったみたい。だが、今はその日常も過去の話。
今の彼のキッチンには、彼の奥さんであり、もうすぐ彼の子供を産む女性が立っている。そこには穏やかで温かい日常が溢れているに違いない。
リビングとキッチンで相手を貶したり怒ったりする言葉が行き交う日もあるだろうし、一緒にキッチンに立って料理をする日もあるだろう。
携帯の写真フォルダに、彼と作った和風パスタの写真をこっそり残している私とは違って、彼は私とあのキッチンに立った日のことなんて忘れている。きっと。忘れてしまっていい。忘れて、真っさらな気持ちでまた私達が会えるならどうぞ忘れて。
別に、あのキッチンにも、今の彼のキッチンにも立てなくていいから。
いや、でももう会えないな。
私と、肉じゃがを作った当時の彼女と、それから彼の奥さん、三股していた期間があったよね。それをこの間、私は知ってしまったのだ。
私はもう、あのキッチンに立つことを望んでいない……はず。