ばあちゃんの唐揚げが食べたい。
わたしの祖母は、そんなに良い祖母ではなかったと思う。嘘もつくし、嫁いびりもするし。でもわたしのことは大切にしていたように思う。
わたしは保育園に入るのが遅くて、しばらくは祖母に面倒をみてもらった。
祖母が裁縫をしているときは、隣でまち針を畳にさして遊んで(今思うとすごく危ないね)、畑仕事に行くときは軽トラに乗ってついていった。
「遊んでもらっている」という感覚はなかったし、実際そうではなかったと思う。祖母が働いている横にいて、ひとりで遊んでいる感じ。特に構われもせず、1人で土いじりをしたり、絵を描いたり、本を読んだりしていた。だから今も一人遊びが好きなのかもしれない。
食事も基本的に祖母が用意してくれていた。幸いわたしは好き嫌いが少なくて、味覚も鈍感なのでなんでも美味しかったけど、特に唐揚げが好きだった。サクサク系と言うよりは、時間が経過しても美味しい、どっしりみっちりした唐揚げ。
見栄っ張りな祖母に、しだいに反発するように
綺麗好きで、庭は雑草一本ないように整えられていた。見た目にはものすごく気を遣っていて、少しでも人と会うなら、身なりをきちんと整えていた。少し見栄っ張りでもあった。
子どもの頃、あまりにもばあちゃんと一緒にいたから、わたしには彼女の考えがインストールされていた。「勉強はしっかりやって1番になりなさい」とか「着るものはしっかりと選びなさい」とか。
子どもの頃はそれが正解だと思っていたけど、年齢を重ねるうちに少しずつ鬱陶しくなって、うるさく感じるようになって。子どもの頃はあまりわからなかった母と祖母の確執とかも分かるようになって。祖母は母にとっては悪者だったのだ。
しばらく口を聞かないこともあった。でもそれでいいと思っていた。この人は口うるさいし、言ってることは間違っている気がするし、なんなら一緒にいない方がいいんじゃない?とすら思っていた。
歳をとっていつの間にか祖母が台所に立たなくなって、わたしが大学進学とともに家を出て、就職して、それから数年して祖母が亡くなった。
祖母の顔を見て、会わずにいたことを後悔した
家を出てから数回しか会わなかったし、コロナ禍の病院で面会もできなかったので、晩年の祖母との思い出はそんなにない。
わたしが幼いころは「いつ死んでも構わん」と言っていた祖母が、入院する頃には「死にたくない死にたくない」って泣いたそうだ。そんなところも祖母らしいね。
祖母との距離感は、これで正解だと思っていた。良い祖母ではなかったし。
でも死に顔を見て、初めて、そんなに会わなかったことを少し後悔した。大柄だった祖母は、とても縮んでしまって、顔はこけていた。わたしの思い出のなかの、見栄っ張りで少しふてぶてしい祖母の姿とはかけ離れていた。
親戚からもあまり良くは思われていなくて、煙たがられていた祖母。本当は寂しがりやで、会えばずっと喋り続けていた祖母。
大人になっても浮いた話が出ないわたしの将来を心配していたらしく、「大丈夫かねえ」と話していたという祖母。
通夜の会場。ここにきて、初めて、せめて幼い頃に育ててくれた恩に報いなかった自分に後悔した。もうちょっと優しくしてもよかったんじゃないの?
帰省してすぐに通夜で、帰宅したわたしはクタクタに疲れてお腹も空いていた。チェーンのお弁当屋さんの唐揚げ弁当を食べる。
こういうところの唐揚げってなんであんまり美味しくないんだろう。衣がしんなりしていて、油っぽい。
両親と黙々と弁当を食べながら、思い出した。そういえばわたし、ばあちゃんの唐揚げが好きだった。大人になって、田舎から都会に出て、いろんな唐揚げ屋の唐揚げを食べたけど、それとは違う唐揚げ。
「そうだったねえ」と母は苦い顔をしていた。
さようなら。また会えたそのときには
翌日、最後に「また会おうね」と小さく声をかけた。母が横で驚いた顔をしていた気がしたけど、見ないようにした。
あんまり良い祖母ではなかった。意地悪だったし、嘘つきでもあった。本当は気が弱いくせに、身内には強気のふりをしていた。それでも孫の行く末を気にしていた祖母。幼い頃、ずっと横にいた祖母。
また会えたら、ばあちゃんの唐揚げ、もう一回食べたいです。あの、ちょっと味付けが濃くてしょっぱいあの唐揚げ。
そんで、「おいしかった」って今度は言うよ。