ふたえ至上主義のこの国、この時代に、ふたえで生まれてくることができた私。

そんな私のことを流行りの言葉で表すと“遺伝子ガチャ”の勝ち組と呼ぶらしい。みんなから羨ましがられる見た目で生まれてきた私は幸運なのだろうか。そして、幸福な人生なのだろうか。

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小さいころから、「ぱっちりおめめで可愛いね」、「これは美人さんになる顔だ」と、近所の人や親戚の人たちから見た目を褒められて育った。

小学生のころまでは、ふたえを褒めるのは大人ばかりで、同級生はその話題に触れることがなかった。中学生のころから徐々に同級生から「生まれつきふたえなの羨ましいよ」と声をかけられることも増えた。メイクを覚え始める高校生になると一気に同級生たちから声をかけられるようになった。

最初のうちはふたえな私ってラッキーなのかも……なんて思っていた。

けれど、徐々に「ふたえっていいな」の言葉に棘を感じる機会も増えてきた。「Aちゃんはふたえなんだからいいじゃん」、「生まれつきふたえだから気にしたことないだろうけど、あたしらひとえは気にすること多いんだよ」とふたえかひとえかで線引きする人も現れた。
ひとえの有名人の顔がタイプというと「ないものねだり」と言われ、ひとえのインフルエンサーのメイク動画をかわいいというと「それマウント?」と言われる。

私はひとえでもふたえでも、好きな気持ちに変わりはない。それでも、指摘されてしまうことがあるから好きな人を簡単に好きと言えなくなった。

そして、何かと褒められるふたえ。ひっくり返せばふたえしか褒めるところが私にはないのではないか……と気づいてしまった。

同じ見た目に関する事柄の、洋服のセンスよりも、メイクの技術よりも、努力で維持しているスタイルよりも、ふたえを真っ先に褒められるというのは悲しくなる。“遺伝子ガチャ”の引き運よりも、コツコツ自分の力で強化した武器を褒めてほしいと思う。

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この経験を踏まえると、ふたえで生まれてきた私は幸運の持ち主と言えるのだろうか。幸福な人生を歩んでいるのだろうか。

私はこう思う。ふたえかひとえかが幸運なのではなく、気にしない環境で生きていけることが幸運で幸福なことだと。

私だって小学生のころは背の順で必ず1番前なのが恥ずかしかった。同級生たちからも保護者の方からも指摘されていた時期は、低い身長にコンプレックスを感じて高い身長の人を羨んでいた。

でも、大人になった今、背の順になる機会なんてないし、背の低さを指摘されることはなくなった。身長が低いことは変わっていないけれど、コンプレックスは解消されている。
それと同じことで、「生まれつきふたえだから気にしたことないだろうけど、あたしらひとえは気にすること多いんだよ」と言った同級生は、きっとこれまで気にするような出来事があったのだと思う。大人からの指摘、同級生からのからかい、コンプレックスを刺激するテレビCM、たくさんのことが積み重なって出てきた言葉だと今ならわかる。

きっと、生まれつきひとえの人の気持ちは私にはわからない。でも、生まれつきふたえで生きている私の気持ちもひとえの人にはわからない。ふたえで生まれても、ひとえで生まれても、周囲の声で傷つくことがある。

アイプチやプチ整形が流行った時代で青春を過ごした私たちは、ふたえかひとえかでたくさんの苦い経験をした。だからこそ、大人になった私たちは、今のふたえ至上主義社会を変えていく使命を持っていると思う。