どこからが「浮気」に当たるのか。
しばしば議論になるトピックのひとつだろう。

ふたりきりで食事に行ったら?
手を繋いだら?
キスをしたら?
セックスをしたら?

あるいは、「好きだ」と自覚したら?

◎          ◎

言葉の定義を正確に調べるのであれば、辞書を頼るのが一番だ。そう思い、引いてみた。

辞書では、「決まった妻や夫、婚約者などがいながら、他の異性と恋愛関係を持つこと」「気まぐれに異性から異性へと心を移すこと」などと書かれていた。異性ではなくとも恋愛感情を抱くことはあるから、すべての人に当てはまる説明とは言えないだろう。ジェンダーや恋愛、パートナーシップのあり方も、今はとても多様化している。一時が万事、古典的な辞書に頼ろうとするのは時代錯誤なのかもしれない。

話が少し逸れてしまったが、私は「異性から異性へと心を移すこと」に、ちくり、と小さな針で胸を突かれたような気がした。

浮気は、善か悪かで言えば「悪」なのだろう。
だからこそ私は、当時の状況を言葉にして明るみに出すのを躊躇ってしまう。
自分の心の中だけに、そして古びていく記憶の彼方に、そっと閉じ込めておきたくなる。

それでも、完全に鍵をかけることはしたくない。
なぜならその記憶は、終わりと始まりのふたつが混ざり合っているからだ。

◎          ◎

私はかつて、恋人がいるにもかかわらず、別の相手に心が移ってしまったことがあった。
心移りも浮気に入るのならば、つまり私は「悪者」だったのだろう。

悪いことをしているのかもしれない、という自覚は当時も抱いていた。だからこそ私は、自分の心の揺らぎを真正面から認めたくなかった。
私には、恋人である「彼」がいる。それは紛れもない事実だ。
もし私が「悪者」になれば、少なからず彼を傷つけることになる。穏やかな関係を築いてきた彼と、そんな事態になるのは嫌だった。

恋人ではない「君」とは、よくメッセージのやり取りもするし、電話もするし、顔を合わせればやいのやいのと戯れ合う。
でもそれは、単に親しいだけ。恋も愛も、そこには存在しない。それがきっと正解なのだと思った。私は、正しい方を選びたかった。間違いを、犯したくなかった。
話を聞くところ、君は女友達が多いタイプのようだった。きっと、私もそのうちの1人なのだろう。そう自分に言い聞かせた。

ただ、私の心の揺らぎを見透かすかのように、ある日突然彼と音信不通になった。
彼の仕事は多忙を極めていて、体調もあまり良さそうではなかった。彼は1人暮らしだったこともあり、なおさら心配でたまらなかった。

恋人を気がかりに思う自分も本物だったし、かたや、どこかで安堵してしまっている「悪者」な自分も本物だった。彼と連絡がつかなくなった間も、私は君と親しくあり続けた。

「彼、既読もつかないし電話も出なくてさ」と、君にぽつりとこぼした。君は「ふうん」と興味があるのかないのか分からないトーンで言い、されど音信不通の期間が長引くにつれ、「それって、そういうことなんじゃないの」とはっきり口にした。

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彼は、私と別れたがっている。
彼と私は、もう、おしまい。
これが君の言う、「そういうこと」だった。

不本意な形で別れることは、本来であればもっと悲しいはずだ。「どうして」と、反発心だって湧くはずだ。
けれど私は、別れが目の前に迫ってきているかもしれないという事実に対して、悲しみは覚えなかった。「どうして」とは思ったけれど、感情は決して沸騰していなくて、ひどく冷静だった。それはつまり、私の心が彼から離れていることを意味していた。離れた心は、きっともう別の場所にあった。

1ヶ月ほど音信不通が続いた後、彼からたった一言だけ、「ごめん、別れよう」とメッセージが届いた。その後私が何度LINEや電話をしても、そこにあるのは沈黙のみだった。一切の音沙汰がなくなり、私と彼の関係は終わった。

不完全燃焼な気持ちは燻っていたけれど、私にできることは、彼の最後の一言を現実として受け止めることだけだった。
そして同時に、ふっと両肩が軽くなったのも否めなかった。

彼に対して、悪びれたり後ろめたかったりする気持ちは驚くほどに湧かなかった。
私はやっぱり、「悪者」なのだろうか。それでも、もう止めることができなかった。心が赴く方向に、今すぐに走り出したかった。

そして、彼と別れた2週間後、私と君は恋人になった。

「ずっと前から思ってたよ。早く別れればいいのにな、こっち来ればいいのになって」

悪戯っぽく、されどストレートに言った君も、たぶん悪者。
君には元々恋人がいなかったら、春の訪れを静かに願う小さな野花のように、じっと私のことを待っていたらしい。
決して奪おうとは思っていなかったようだし、私も2人と同時に関係を持つことは絶対にしたくなかった。一線は、互いに超えていない。
果たしてこれは、誰に対する言い訳なのだろう。一線とは、どのポイントに引かれるものなのだろう。

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あれから時がたった今も、彼がどこで何をしているのかは知らない。知りたい、ともあまり思わない。
ちなみに私は、あなたと別れた直後に付き合った人と、結婚したよ。ふたりで楽しく幸せに暮らしているよ。

「酷い」「最低だ」とあなたは思うのかな?
でも、いきなり連絡を絶って、理由も言わずに一方的に別れを突きつけてきたあなたも、大概酷かったよ。
あなたにあの時何があったのか、今さら確かめたいとも思わない。
私が残酷なのか、時の流れが残酷なのか。

どこかで元気に生きていてくれたら、それだけでいいよ。