「名前を教えて」というテーマなので、名前について思ったことを徒然なるままに。
1つ。名前は最初のプレゼントであるということ。
名前は、家族からの最初にして最大のプレゼントであるという。待望の我が子を腕に抱き、祈りと未来への期待を込めて、一生をかけて名乗る名前を決める。地元の本屋で、普段行かないコーナーに行ってみようとちょっした冒険心を出した私は、赤ちゃんの名前決めに関するコーナーに行きあたることで、それが家族にとってどんなに大切な仕事なのか痛感させられた。
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そういえば、と思い出す。弟が生まれたとき、出生届の期限ぎりぎりまで名前が決まらず、何度も家族会議を開いていた。「はやく名前を決めて呼んであげようよ!」と泣き出す母。気まずそうに黙々と漢字辞典をめくる父。その間に挟まれおろおろする姉と私。あの修羅場からすでに22年経ったとは、時の速さに驚くばかりだ。
「あんたの名前決めるとき結構大変だったんだよ」と、その修羅場の後に決まった名前を、まるで最初からそこにあったものかのような自然さで名乗る弟に、いつもなめられっぱなしな姉はそんなところで姉御肌をふかしてみる。
我が子を腕にして喜びのあまり血中ヤンキー濃度が爆上がりしてしまい、その結果輝きすぎているキラキラネームをつけられてしまう赤ちゃんもいる。王子様と名付けられた青年が家庭裁判所での手続きの後、改名したというニュースを見た。彼が自分自身で新しくつけた名前は「肇(はじめ)」だったという。ここからまた人生を新しく「肇める」のだ、という彼の決意。名前は家族から、そして彼の場合は自分自身からの最初のプレゼントだったということは、あながち間違いではないのだろう。
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1つ。名前が人となりをつくるということ。
春。つぼみが芽吹き、花は咲きほこり、新しい環境で新しい人と新しい生活が始まる、希望に溢れたそんな季節。しかし、学生時代の私にとっては少々憂鬱な時期でもあった。名前順がかなりの確率で1番になる私にとっては、自己紹介のトップバッターをしなければいけないからだ。あー、大変だね、と物知り顔に同情している、そちらの「か行」以下から始める苗字の諸君。君たちはどうせ理解できないだろう、この苦しみを。
あれは高校2年生の4月だった。新任の数学の先生が自己紹介をし、「みんなのことを知りたいから、自己紹介をしてもらおうかな」と切り出した。そして続けて「じゃあ名前順で、まよさんからよろしくね」と言った。来た、この瞬間が。私はのろのろと立ち上がり、口を開く。
「まよと申します。女子サッカー部に入っていて、趣味は料理とカラオケです」
ここまで無難。下手に笑いやウケを狙わず、ここで終わらせればよかったのだ。でも、つい盛り上げようと思ってしまう私はこう続ける。
「私は数学が苦手です」
セキララすぎる告白に、まだ空気が出来上がっていない新しいクラスメイト達の中で笑いが生まれる。その静かだけれど確かな笑いに心の中でガッツポーズをしてしまう。やった笑いを取れた、と。しかし次の名前順がクラスメイト。彼は自己紹介をしたのちにこう付け加えた。
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「数学が僕を苦手です」
クラスメイトの笑いは、はじかれたように大きくなる。私の勇気ある一言はただのフリに使われた。自己紹介を始めて十数年、トップバッターの私はいつだって切り込み隊長なのに、いつだって後ろの人のフリに使われる。新しいクラスの空気を、0から1を生むその作業がどれほどプレッシャーなのか知らずに1から100を生む、「か行」以下の人達は気楽でいいな、と思うのだ。
そんな私はいつも「渡辺さん」に憧れる。名前順が先頭なことで切り込み隊長を任されてきた私たちは、きっと思い立った瞬間に走り出してしまうところがある。逆に最後に悠々と全てを締めるわ行の「渡辺さん」は、きっとどっしりと構える大器晩成型の人間が多いに違いない。そんなことを友人の「綿貫さん」に伝えると、最後に締めるのも技術のいることだよ、と優しくなだめられた。その優しさもなんとなくわ行の人ぽかった。
名前が人となりを作る、こともあるのではないか。私は、春が来るたびに思ってしまう。
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3つ。名前を奪われるということは、その人の人生そのものを奪うほど大きなことだということ。
ジブリが好きだ。となりのトトロ、もののけ姫、ラピュタ、紅の豚、魔女の宅急便、何度も観たし、これからも何かにつけて何度も観るのだろう。今回のエッセイのテーマ「名前を教えて」が発表されてから数日後、たまたま千と千尋の神隠しを観た。そこではっとしたことがあった。
ある日突然異世界に紛れ込んでしまった主人公千尋は、魔法によって豚に帰られてしまった両親と共に元の世界へ戻るため、湯屋で働くことになる。湯屋の主人の湯婆婆と契約書をちぎるときに、「千尋」から「尋」の字を奪われ、「千」という名前を与えれる。
千の名に最初は違和感を覚える千尋だが、段々と慣れていき、元の名前を忘れていく。物語の中盤、名前を思い出すまで、千尋は自分が千尋だったこと、それまでの人生を忘れてしまう。それが湯婆婆による自由と個性を奪う「支配」なのだ。
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支配の形として名前を奪うこと。千と千尋の神隠しの例だけでなく、かつて日本が朝鮮を支配していた時代に、朝鮮人の名前を日本風に改名させた「創氏改名」が支配の形の一種だった。そしてそれが、言霊という言葉があるように、それまでの人生を奪うほど大きな力があるということなのだ。
かように、名前は私たちの個性と核に密接に結びついている。最初に与えられたプレゼントであり、人となりを形成し、時が経つにつれその人の根幹に結びつく。たかが名前、それど名前。私はかがみよかがみで「まよ」と自分自身に名付けることで、エッセイスト(自称)としての人生を新たに始めた。その新しい「まよ」としての人生がいかに生きがいに繋がっているか、読んでくれているあなたにも伝わるといいのだけれど。
ここまで徒然なるままのエッセイを読んでくれたあなた、ありがとう。そして尋ねたい。あなたの「名前を教えて」。