子どもは大人の憧れの対象らしい。
子どもの頃の気持ちを忘れるなとか、子供のような発想でイノベーションを生み出そうとか。子どもは大人にはないものを持っていて、もてはやされて、崇め奉られる。
誰でも子どもの頃があったはずで、もちろん私にもあった。「私の笑い話」ということで、今回は私の小学生時代の話をしたい。
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笑い話は二つある。どちらも先日実家へ帰省した際に(というか、帰省するたびに母が目を細めて、遠くを見て懐かしむように、そして自慢げに話すのだが)聞いた話だ。
一つ目は「すぐ開き直ってしまう性格」だ。私は幼いころ、おてんば娘で活発に動き回っていた。その分たくさん母や学校の先生に叱られた。丁寧に扱わないからすぐに物を壊したり、片づけをしなかったり。怒られるたびに大泣きして、シュンとして、反省していたらしい。
反省する時、よく自分の部屋に戻ってドアを閉めていたそうだ。子どもを叱った後、部屋に籠って何をしているか気になるのが親心だろう。叱りすぎたかなと申し訳なく思ったようで、私の様子を伺うために母はドアをそっと開け、中にいる私をちらっと覗き見したそうだ。
母の心配は杞憂であった。反省した私は鼻歌をフンフン歌いながら、一人遊びをしていたのだ。それもたいそう機嫌よく。
くよくよする子どももいるかもしれないが、子どもは目の前の事すべてが新しい、毎日が発見の連続で、急成長の過程である。後ろを見ている暇がない生き物なのではないかと考察した。(もしくは内省する思考が不足しているのか)
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二つ目は「根拠のない自信家気質」だ。小学校2年生に進級する春のタイミングで、「けついひょうめい」を書くことになった。学級通信に生徒全員の表明が載るのだ。各々頑張りたいことを書いていた。
私は「すてきな二年生になりたいです」と。それだけならまだ分かる。他にもそのようなことを書く子はいた。私は続けてこう書いた。
「でも、なれるとおもいます。だって、いい子だからです」
これは何度見ても笑う「けついひょうめい」だ。何を以て自分が「いい子」かなんて気にしていない、更に誰にも否定させまいとする、自信とやる気に満ち溢れていることがダイレクトに感じられる短文だからだ。
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子どものころの私は、今よりも大きく生きていた。ように感じる。いや、そうに違いない。子どもは何も考えなくていい。
何も考えなくてもいいのは、親や周りの大人が責任を取ってくれて、守ってくれていたからだ。だからのびのびと、健やかに、力あふれる名場面を作り上げられたのだ。
しかし、決して今の私に不満があるわけではない。紆余曲折あって、社会的責任を感じて、マナーやルールを身に着けてと、変化していった。変化というよりも、進化の方が正しいかもしれない。
根底に流れる血は子どもの頃と変わっていないはずだからだ。子どもの頃の素直さから生まれたエピソードを忘れずに、ただそれに縛られることなく大人になった私が作れる価値で今度は笑い話を作りたいとひそかに心の炎に薪をくべる。