私の所属していた研究室は、他の研究室と一線を画していた。
仮にA研としよう。

「所属どこ?」「A研」と答えるや否や、「え、あのA研?」と驚きとやや引き気味のリアクションを取られた。「なんかやらかしたらしいらしいよ」「どこの研究室?」「A研」と答えれば納得と苦笑の表情が相手の顔に浮かんだ。
それが、A研だった。生き物を愛しすぎた変人たちのたまり場、生き物のためならたとえ火の中、水の中、一直線に突っ走っていく問題児たちの集まり。

個性が爆発する研究室のムードメーカーは、愛すべき粗忽者

そこには個性の爆発したメンバーが集っていた。
昆虫好きの常にマイ虫取り網持参の猛者たちや、自宅ではく製をつくってコレクションしてしまう動物好き、花よりも”苔”好きの趣味の渋い女の子たち、見たい植物がそこにあるのならばと、北は北海道、南は沖縄、果てはボルネオの熱帯雨林までなんのそのの珍植物の探求者たち、バードウォッチャー、蘭愛好家、昆虫食愛好者まで、研究室は常に熱気と専門用語と、それぞれの戦利品であふれかえっていた。

そんな研究室の同期にムードーメーカーがいた。
仮に、Bくんとしよう。
Bくんは、愛すべき粗忽者だった。

彼は熱帯の植物が好きな背の高い青年で、好奇心旺盛な人物だった。だが時にそれが空回りして、周囲を笑いの渦に巻き込むことがあった。

それが最初に判明したのは、三年時の研究発表会。それぞれが思い思いにやりたい研究のテーマや方向性を発表するはじめての場だった。

順調だったはずの彼の発表。突然挙動不審な動きを見せる

なのにパワーポイントのデザインは、なぜか紅葉したもみじの和風デザインだった(照葉樹林は常緑の広葉樹林である)。くすくす笑いが会場で起きた。

さておき、彼の発表は中盤まで順調だった。しかし突然挙動不審な動きを見せる。
なぜか彼はスライドのページをどんどん先に進めていきはじめた。そしてとうとう最後の「ご清聴ありがとうございました」のスライドが画面に表示された。発表が終わった?

周囲が戸惑いと笑いに包まれる中、彼はすました顔で、今度はスライドを最初から開いてまたどんどんすすめ、中ほどで止めた。「すいません、途中から再開します」

後で聞くとどうやら彼は、パワーポイントの”戻る”ボタンがわからなかったらしい。
唐突に彼の発表が秒速で終了したので、会場は爆笑の嵐だった。
厳しい雰囲気だった発表会が、一気に和んだ瞬間だった。

研究室で笑い話として語り継がれる、Bくんの「シャコパンチ事件」

彼に関する面白いエピソードは他にもたくさんあるのだが、私の記憶に深く残っているのは南の島の調査での出来事だろう。
調査のつかの間の休み時間、仲間たちと一緒にビーチで遊ぶという珍しく青春っぽいことをしていた。魚好きの同期がカクレクマノミを捕まえてくれて、みんなで可愛いねなんて言い合って、沖縄の青い海を楽しんでいた時だった。岩陰から「イテッ!」という大声がした。

Bくんである。どうしたのと声をかけた。
「シャコにパンチされた!」

いったい何をどうすればシャコにパンチされる状況が生まれるんだろう。
ネコパンチなら聞いたことあるが、シャコパンチは聞いたことがない。
”シャコパンチ”をくらったBくんは飛び上がりながら手をさすっていた。
当時の私は、はじめは驚きが先行して大丈夫?としか言うことができなかったが
後から笑いが込み上げてみんなと一緒に爆笑したのを覚えている。

ちなみに彼はそれに懲りずにガザミ(ハサミが非常に鋭いカニの一種)の巣穴に素手で手を突っ込んだりしていた。あくなき好奇心というべきか、無鉄砲な試みというべきか。
ともあれ件の一件は、「シャコパンチ事件」という笑い話として語り継がれることとなったのだった。

卒業し、仲間たちはきっと、「普通の人間」に擬態して生きている

その後彼は、普通に就職し、私も大学院を卒業した後、大学とも研究室の仲間ともすっかり疎遠になってしまった。
就職した私は、会社が”ふつう”の人間でいっぱいでびっくりしてしまった。
冷蔵庫は獣肉でいっぱいになっていないし、コオロギの佃煮をお土産に持って帰ってくる人もいなければ、野菜を学名のラテン語で呼び合いながら料理する人たちもいない。
趣味はなんですかと聞いてみれば、夜中の昆虫トラップ仕掛けでもなく、摘みたて雑草の野草料理づくりでもない、飲み会とか、ゲームとか、旅行とか、いわゆる普通の趣味だ。当然なのだが。
自分はずいぶん特殊な環境にいたものだと思い知らされる。

時々ふとさみしくなるのだ。あの時の仲間たちは今どうしているのかと。
普通の人間に擬態して窮屈に生きているのではないかと。
でもBくんを筆頭としたあの愛すべき仲間たちは、きっとどこへ行っても、心のどこかに、ひそかにへんな自分を隠し持っていると信じている。何しろ私がそのうちの一人だからだ。
趣味は読書と嘯いている私の隠された趣味が、実はへんな形の植物の種あつめ、だというのは内緒の話だ。