「〇〇ちゃんママ」
昨秋、娘を出産してから付けられた、私の新しい“名前”。産後まもなく子育て支援センターデビューし、初めてそう呼ばれた時にはちょっぴり照れくさくて、こそばゆさを感じた。

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そういえば、最後に自分の名前を呼ばれたのはいつだっただろう。
時がたつにつれて、感情は形を変えた。ママと呼ばれるのは、母になった証であり特権。だけど、自分の存在を表すのに代名詞で事足りるという、虚しい現実がそこにはある気もする。

学生時代は、ほとんどの友達と名前やあだ名で呼び合っていた。持ち物に氏名を書かされ、毎日出席確認され、日常で触れる機会が多かったから、名字までしっかり記憶している。社会に出ると、状況は変わった。仕事で関わる人、特に会社の上司や取引先の相手は役職で呼ぶようになった。彼、彼女の名前を知らないなんて、結構あるある話だ。

肩書や関係性にとらわれず、個々とありのままの姿で付き合いたい。年を重ねるにつれて、そんな思いが強くなった。自然と、同期やプライベートでも関わりのある人は、なるべく名前や愛称で呼ぶよう意識するようになった。

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根底には、自身が自分の名前を気に入っていて、大切にしたいという思いがある、と最近になって気付いた。とはいえ、親によると深い由来はなく、姓名判断で決めたという。何とも味気ない話だが、ミーハーな母が少し奮発し、地元で定評のある神社に命名を依頼したそうだ。その甲斐あってか、珍しい名前ではないものの、ひらがな表記で覚えてもらいやすく、それだけで得した場面はあった。どうやら海外でもなじみがある呼び名のようで、外国人からも親しんでもらいやすかった。名前が、自分らしさや人との関係をつくってくれた。

名付け方がどんな経緯であれ、名前は一生を左右するといっても大げさではないくらい、自分を構成する要素であって、親から子へ送る最初のプレゼントではないだろうか。
それは親になって、改めて実感した。妊娠中、まだ顔も見ていないわが子を思って、漢字の意味や名字と相性のいい画数、呼びやすさを考慮した語感などを調べ、時間をかけて考えた。数か月かけても決めきれず、結局、産まれてきてようやく決心がついた。娘には自分の名前を好きになってほしいし、何より、名に込めたように、未知の可能性を広げ、自由に生きてほしいと心から願っている。

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大人になると、仕事ではもちろん、よく立ち寄るコンビニであいさつする店員、趣味で通うようになったジムで顔を合わせ、雑談する同世代らしき女性……。人とつながってはいても、案外、名無しで付き合いが成立している。学生時代とは異なって生きる世界が広がり、全員の名前を覚えるほどの余裕もなければ、会社や家庭で担う役割が増え、個として誰かと接する時間も限られてくる。仕方ないだろう。

それでも勇気を出して、気になる彼、彼女に名前を聞いてみてもいいかもしれない。距離が縮まって、今まで見えなかった人の側面が見えてくるはず。相手に対してより興味も沸いてくるだろう。何より、自分が名前で呼ばれたらどう感じるか。きっと、自分の存在を意識できるようになる。いくつになっても、何者になっても、名前は唯一、アイデンティティーを表現してくれる個々の宝物だから。