(注)本エッセイを食事前および食事中に読むことはお控えください。本注意書きは、「私の笑い話」というテーマで、シモの話しか思いつかない力量のなさを露呈させる敗北宣言でもあります。

朝のトイレは長いものだ。一晩分の小の方をして徐々に目を覚ましている度に、その偉大さを痛感させられるエッセイストがいる。「ちびまる子ちゃん」で知られるさくらももこ先生だ。エッセイ短編集デビュー作にして累計発行部数100万部を突破している「もものかんづめ」を始めとし、「笑える エッセイ」などとgoogle先生に聞いてみると必ずその作品群があがってくる、笑えるエッセイの第一人者である。

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さくらももこ先生と私の関係は長く深い。小学生の頃から一通り作品を読んだだけでなく、かがみよかがみでエッセイを執筆するにあたり、イチから文章を学んでみようと、「もものかんづめ」や「さるのこしかけ」、「たいのおかしら」といったエッセイの代表作を大人になってから読み直した。静岡に遊びに行った際は、ちびまる子ちゃんランドに足を運んだ。今度東京で開催される「さくらももこ展」には、野口さん似のさくらももこフリークの友人と遊びに行く予定である。
先日短篇小説コンテストに応募した小説を、友人に読んでもらった所、「なんか雰囲気が朝井リョウさんっぽいね」という感想を頂いた。友人は勘が良い。朝井リョウ先生こそ、私が一番尊敬し夢中になった作家である。影響は多分に受けている。そして「笑えるエッセイ」で調べるとgoogle先生が、さくらももこ先生の次におススメしてくるのが朝井リョウ先生なくらい、朝井リョウ先生も笑えるエッセイストなのだ(先生が乱立し読みにくい文章である。こんなところでも力量のなさを露呈してしまう、恥ずかしい)。そして、その朝井リョウ先生が一番エッセイストとして尊敬しているのが、さくらももこ大先生なのだ。つまり、私とさくらももこ先生の関係は、ファンを超えて、孫弟子と大師匠なのである。

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そんな大師匠を一番尊敬する瞬間。それが冒頭に戻って、朝のトイレの時間なのである。それはなぜか。私たち一般人にとって、朝の排尿は、時間に追われる朝にできるだけ速く済ませなければいけない儀式であり、排出された尿は、「なんで検尿のときって朝一番のおしっこじゃなければいけないんだろう」とたまに疑問に思うくらいで、特に思い入れもなく流してしまうものだ。

しかし大先生は違う。先生は、飲んでしまうのだ。何を?と話についてこれなかった皆さんに、もう一度言う。さくらももこ先生にとって、朝一番の排尿は、流すものでなく、飲むものなのだ。それも健康のために。先生によると、朝一番の尿(朝一番のが一番効くらしい)を飲用することで、便通がものすごくよくなり、全ての老廃物が流れるような気分になるらしい。排出物×排出物のシナジーなのだろうか。その効果は「身も心も軽くなり、ホップステップジャンプ」するくらい「オシッコに熱をあげている」とのことだ。もちろん先生も、最初からノリノリで飲尿していたわけではない。しかし、「飲尿なら万一インチキであったとしても被害はゼロ円である」ことから、試してみたところ効果が絶大で、そこから夢中になったらしい。

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このことが綴られたエッセイ「飲尿をしている私」を読んだ小学生の頃、幼い私は衝撃を受けた。この人は、エッセイのネタに困って、話のネタに飲尿しているのではない。そんな打算的なものでなく、本気で健康のためにやっていて、本気で良いと思っているから、おススメしているのだ。そしてその全てをセキララにエッセイに綴り、結果笑いを取っている。

私たち凡人は、エッセイのネタに困ってたから少し突飛なことをしてみようと、飲尿に走ることはあるかもしれない(それでも嫌だが)。笑いを取りに行くためでも、私は飲尿はできない。さらに言えば、例え飲尿したとしても、いくら原稿料をもらっても、飲尿していることは墓場まで持っていく秘密にする。

でも、大先生は、本気で飲尿を実践し、本心からおススメしている。真剣なのである。自分の尿なら被害がゼロ円だという、その動機も、普通の人ならおしっこに損得勘定は働かない。地の性格が、人となりが、ちょっと面白過ぎやしないだろうか。こんな天然で面白い人に、どうやったら敵うというのだろう。この人のエッセイを読んで、笑えるエッセイの勉強をしようと思ったけれど、何を盗めるのだろう。何を参考にできるのだろう、本心でおしっこを飲む人から。私は自分の凡人ぷりとさくらももこ先生の人を笑わせる天賦の才の差に、目の前が真っ暗になった気がした。

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そんなこんなで、私は今日も朝トイレをするたびに、エッセイストとしての凡人ぷりを突き付けられている。もう一度排尿後のトイレを覗きこむ。これを、飲むのか、とごくりと唾を飲む。ああ笑いのためだとは言え、やはり私には飲めない。凡人の私が飲めるのは、尿ではなく、せいぜい唾くらいなものだ。朝一番のトイレの度に、私は「お前にエッセイで全てをさらけ出す勇気はあるか」と覚悟を問われているような気がするのだ。因みに師匠の朝井リョウ先生は朝井リョウ先生で、自分のお腹のゆるさをそれはもうセキララに面白おかしくエッセイにして、読者を笑わせている。大師匠と言い、師匠と言い、エッセイはかくも奥深い。

参考資料)「さるのこしかけ」 より「飲尿をしている私」 
さくらももこ著 集英社 2002年