人生最初に借金を背負ったのは、大学1年生の時だった。奨学金という、学ぶための資金は容赦なく若者を襲った。

1990年代前半、不動産会社を営む家に生まれた。物心がついたころから、母は家業を手伝っていた。本格的な業務に携わりたいと、私が小学校高学年の時には、家事と育児をこなしながら建築士の資格を取得した。当時、友達のお母さんは専業主婦が多く、共働き家庭は珍しかった。家に帰るとお母さんがいる子がうらやましかった一方、「将来はお母さんみたいにかっこいい、働く女性になりたい」。早くからその姿に憧れていた。
自身のキャリアアップに意欲的な母は、子どもの教育にも熱心だった。私と妹は幼少期から通信教育講座を受講していたし、ピアノ、水泳、英会話、少林寺…習い事は常に掛け持ちしていた。「〇〇やってみたい」と言えば、ほとんどやらせてくれた。

◎          ◎

転機は小学6年生の時だった。ひょんなことから、会社が倒産に追い込まれた。すぐに生活への変化はなかったが、両親は転職活動を始め、これまで以上に喧嘩が絶えなくなった。まもなく両親は離婚、母と妹と3人での生活が始まった。無駄遣いをしない母の財布の紐は、一層堅くなった。何をするにも「お金がない」「もったいない」。口癖になっていた。

母を困らせまいと、私は自然と、値段を気にする習慣が身に着いた。高校は授業料が全額免除になり、塾通いが不要なほど勉強熱心な私立高校を志望した。無事合格したものの、想像以上のスパルタ教育に挫折し、成績は急降下。不登校だった時期もあり、大学進学は危うい状況だった。それでも、中卒で再就職に苦労した母は「大学は卒業しなさい」と頑なだった。学習費に数十回の受験料、併願する学校の入学料と、この時ばかりは、資金投資を惜しまなかった。おかげで、ある程度名の通った大学に進学がかなった。家庭の経済状況から、給付型の奨学金を受けられた。それでも足りず、返済型も2つ申請した。

◎          ◎

念願のキャンパスライフを手に入れると、授業を受けているだけでは物足りなくなった。留学がしたい。資格を取得したい。好奇心旺盛な性分が自らの首を絞めた。「贅沢を言わないで」。何度も母に激怒されたが、私は諦めなかった。遊びたい気持ちを抑え、週6日、1日10時間以上のアルバイトで資金繰りをし、自己投資した。
将来は子どもの学びたい思いを実現できる仕事をして、自分と同じ思いをする子を一人でも減らしたい。いつからか、そんな思いが芽生えた。大学3年生の時、タイのスラム地区で子どもの教育支援をしている学校を視察するツアーに参加した。子どもに接する機会がほしくて、帰国後は学習塾の講師も務めた。いよいよ就活が始まると、教育現場と関わり、発信できるマスコミや教育関係の会社を何十社も受けた。幸いにも思いに共感してくれる会社と縁があり、取材ライターとして働いている。

社会人になると同時に、奨学金返済は始まった。毎年、年1回の返済日が近づくと憂鬱になった。過去の自分が使ったお金とはいえ、汗水流して手に入れたお金が奪われていくのは虚しかった。お金の使い方を知らない私は借金返済におびえ、手元にお金が残っても自分のために費やせなかった。6年目の冬、清算した時に肩の荷が下りた感覚があったのをいまだに覚えている。

◎          ◎

きれいごとなしに言うと、人が生まれ育つ環境は平等ではないのだ。私自身、子ども時代は運命を恨んでいた。学ぶために我慢ばかりして、苦しい思いはしたくなかった。だけど、私と妹が将来困らない知識や経験、学歴が手に入るよう、両親は必死に尽くしてくれたし、夢をかなえる過程でいろんな人が救いの手を差し伸べてくれた。
不平等な世の中でも、せめてチャンスは公平に与えられる社会であってほしい。そのために、私は働き続ける。