先日、妹と東京へ行った時のこと。
東京駅地下1階にすみっコぐらしのショップがあり、私は吸い込まれるように入った。
地元では見かけない珍しい限定の商品たちがキラキラと並んでいる。

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私はアラサーのOLだけど、すみっコぐらしが大好きだ。
すみっコぐらしはサンエックスのキャラクターで、しろくまやねこ、とんかつなど多くの種類がいる。「電車の座席でも教室でも、できればすみっこにいたい」という少しネガティブだけど共感しちゃう、個性的でかわいらしい見た目が特徴のキャラクターだ。
私は中でも、本当は恐竜の子供だけど見つかったら捕まってしまうのでとかげのふりをしている、「とかげ」という水色のキャラクターが大好きだ。いつか恐竜のお母さんと一緒に暮らすことを夢見ながらすみっコぐらしの仲間たちと生活しているその背景も含めて応援したくなるし、何よりつぶらな瞳とほっこりする口元がたまらなくかわいい。ちなみに妹は「ぺんぎん?」というキャラクターを推している。
私は手のひらサイズのぬいぐるみをゆるく集めていて、自宅に帰ると様々な衣装を着た、とかげのぬいぐるみが出迎えてくれて、毎日癒しと元気をもらっている。

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私はあまりこのキャラクターが好きということを周囲には言っていない。きっと自宅に遊びに来た仲のいい友人達くらいだと思う。
すみっコぐらしの他にも、ライブに行くくらい好きなバンドやジャニーズのグループ、何度も読み返すくらい大好きな本、お気に入りの雑貨店・愛用しているコスメ。
私にはずっと大切にしたい大好きなものがたくさんある。だけど、これも自分から「好き」ということを口にすることは少ない。それは、自分の「好き」を大切だと思っていた人たちに否定された経験があるからだ。

昔、ずっと私のことを親友だと言ってくれていた大切な友人がいた。
彼女とはよくカフェに行ったり、買い物をしたり、長電話をしたり。最初の頃はお互いに「これ○○に似合いそうじゃない?」と言いながら服選びをしたり、「こんな曲知らなかった!」と、好きな音楽を共有したりして、いつも本当に楽しかった。
だけど付き合いが長くなればなるほど彼女は、彼女の思う私じゃないと許せなくなっていったようだった。
「その服、ちょっと幼くない?(笑)私みたいにこのニットとデニムパンツ履きなよ」
「もう社会人なのに、このグループ好きなの?ありえないんだけど(笑)ないわー」

彼女はいつも「もぴのためを思って」と、これらの言葉を言っていたけど、その裏の気持ちに気付いた時、彼女から吐かれ続けた言葉達に私は心が潰されてしまった。
その後、彼女からある出来事で裏切られ距離が開いて暫くした後、人づてに私が好きなアーティストを彼女も好きになって応援しているという話を聞いた。その時、「あの時の言葉は“私のため”だなんてこれっぽっちも含まれてなくて、自分の気持ちを収めるための言葉だったんだな」と、大切な存在だったからこそ悲しかった。

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また、昔付き合っていた人に一緒に貯金を頑張りたいから趣味であるそのアーティストにいくらお金を使っているのか?と、聞かれて私は正直に金額を計算して答えたことがある。
私は当時、手取り16万強の中から毎月5万を必ず貯金し、貯蓄分と家賃や食費などの生活費分を引いた余りで好きなグループのDVDを購入したり、その余り金を積み立てたお金でバンドのライブに行ったりしていたから、正直に堂々と答えた。
けれど相手の反応はその私の答えを否定するような返答だった。
彼にも趣味や嗜好品があり、その話をする時の彼の楽しそうな笑顔が好きだったから私には彼の「好き」を否定する概念なんて微塵もなかったし、その彼のおかげでこんな世界もあるんだなと、新たな趣味を経験できて嬉しかった。だけど、彼には私の「好き」を否定されてしまった。
「こんなに貯金も将来のためにやりくりして頑張っているのに、彼とこれからも一緒に居るためには私はこの「好き」にはお金をかけられないのか。そっか、彼の思う“私”じゃないと、それ以外の“私”って否定されちゃうんだな。」と感じてしまった。

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彼女も彼も、私にとってとても大切な人たちだった。
でもそんな人たちから自分が今までずっと大切にし、心の拠り所にしていた「好き」の気持ちを真っ向から否定されるのってとても悲しいし、寂しいし、残念だった。

きっと彼女達は、私の「好き」は受け入れ難く、無駄なものにお金を使っていると思ったのかもしれないけれど、私はその「好き」のおかげで仕事も貯金も頑張れたし、苦しい時に多くの心の拠り所が私を支えてくれた。
たくさん傷ついたからこそ、私はやっぱり「好き」の気持ちは絶対に我慢したくないし、大事にしたい。きっとどんな人にも心の拠り所って必ずあると思う。
この経験をしたからこそ、自分の大切な人たちが大切にしている「好き」も含めて肯定できる、自分で在りたい。