「突然ですが、夢と現実の違いって何だと思いますか?」

よく聞く答えとしては、痛みを感じるかどうかや、空を飛べるかどうかなどが多いことだろう。しかし、なぜ、痛みを感じなければ夢なのだろか。なぜ、空が飛べたら夢なのだろうか。私たちが夢という、痛みを感じず空を飛べる姿こそが本来の自分で、私たちが現実という、痛みを感じ空を飛べない不自由な姿が夢の中の自分なのかもしれない。そう考えたことは、ないだろうか。

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ここまで聞くと、ある物語を思い浮かべる人もいるだろう。それは、中国の説話『胡蝶の夢』というものだ。ざっくりと説明すると、蝶になり自由気ままにひらひらと飛んでいたとき目が覚める。その時、自分は蝶になる夢を見ていたのか、それとも夢で見ていた蝶こそが本来の姿だったのか。そんな問いが出てくるが、大切なのはこの問いではない。どちらが真実かと自分自身に問い、答えを探すよりも、それぞれの場で満足して生きればよいというお話だ。

私が胡蝶夢を読んだときに感じたことは、どの側面も自分自身の一部で全くの別物にすることはできないということだった。エッセイストの私も、大学生の私も、キラキラしたインスタの私も、弱音を吐き出すTwitterの鍵垢も、そして、私が見る夢も全てが私の一部。なのだと言われているような気がした。

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ところで、「あなたは夢見の良いほうですか?」。

ちなみに、私はあまり良くない。良くないどころか、悪いといってもいいほど夢見は良くない。そもそも、私は蝶になれるほど現実離れをした夢をみない。私自身は人間だし、顔と名前を知っているどころか、生まれたときから付き合いのある家族が登場する。そんな登場人物たちと、どんな時間を過ごすかというと決まって修羅場だ……。母親に見捨てられる夢、父親に否定される夢、妹に突き放される夢、弟に呆れられる夢……。ろくでもないラインナップだ。

そんな夢を見た日には、朝から「最悪な1日のスタート……」と涙が出る。まず起きて、実家にいるのか、自分の家にいるのか周辺確認をする。そしてすぐさま、枕もとのスマホを手に取り、LINEのトーク履歴をみる。こっちの世界では修羅場が起きていないことを確認し、ようやく少しだけホッとする。だが、確信なんて持てないし、いい歳の大人が夢で見て不安になったなんて実家に連絡なんてできないし、その日は1日中不安な気持ちで過ごす。

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私は今のこの状態を振り返ってみて、どちらの世界でも満足して生きられていないことに気が付いた。私が夢と思っている世界でも苦しんでいるし、現実だと思っている世界でも沈んだ気持ちで過ごしている。だから、私は夢と思っている世界を、私が現実と思っている世界で生きていくためのリハーサルの場にしようと決めた。

家族から拒絶の言葉を面と向かって言われると、傷つくことはわかりきっている。だから、夢の中で、もし向こうの世界で言われても冷静でいられるように、もし言われても話し合えるようにリハーサルをする。そんな意識を持つようにした。すると、今までは夢か現実かわからなくて最悪な1日を過ごしていたが、「夢でよかった……」と思えるようになってきた。次第に、「今日の夢の結末はうまくいったな」とか、「今日のパターンは失敗だった。こっちの世界ではしないようにしよう」なんて思えるほど心に余裕ができた。

今生きている私が本来の姿でも、眠っている間の私が本来の姿でも、私という人間であることには変わりない。今、ここに存在していると思う場所で一生懸命生きていこうと思う。