高校を卒業するまでは、親の敷かれたレールの上を走り、兄の後ろ姿を追いかけるのが私の人生だった。
私は大学生になり、実家を出た。やりたい事があったわけではなかったけれど、誰も知らない街で「自分の人生を生きる」ということを自らで選択した。
初めて自分の意思を押し通した。
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元々、実家大好き人間で家族とも仲が良かったし、なにより大好きな兄がいた。
社会人になって実家に帰ってきた兄。兄とは歳が離れていたから、私がまだ高校生のうちに、兄は大学も卒業して社会人になっていた。
私は小さい頃から兄の後ろを金魚の糞のように付きまとっていた。同級生より兄の友達と喋る機会が多かった。兄の友達は、街中で私に会うと「妹!」と呼んでかわいがってくれた。
名前、覚えてもらったことなかったなぁ、そういえば。
両親は共働きで忙しく、2人とも夜勤もしていたから、小さい頃の両親の記憶が薄い。3食のご飯はきっちり作ってもらっていたけれど、話した記憶があまりないのだ。
家族旅行に行っても兄ときゃっきゃと遊んでいたし、相談相手はいつも兄だった。
兄は、成績優秀、スポーツ万能、友達の人気者、彼女は引く手数多。毎日、いろんな友達が家に来ていた。
そんな兄を尊敬していたし、大好きだった。兄=神と崇め、自他ともに認めるブラコンだった。でもそれと同時に劣等感も一緒にまとわりついていた。
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私が中学生になる頃には、兄との差がみるみる開くのが分かった。私は、いじめられっ子で不登校、成績もどんどん落ちて、スポーツも県大会入賞が関の山。兄の姿を追いかけて、何でもやってみたけれど、何も敵わなかった。
中学の担任には、毎日呼び出されて、「志望校を変えなさい」と、昼休みの間ずっと諭されていた。なんとかかんとか兄と同じ高校に入学できた時は心底ほっとした。
ただ高校に入ってからは、授業についていけなくて「次赤点取ったら補習だぞー」と毎回脅しをかけられている生徒だった。しかも自分なりに勉強していたのに、だ。
むろん、そんな状態でスポーツをする気も起こらなかったから、帰宅部を選択した。
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高校1年の夏、進路調査。理系にするのか文系にするのか。
そんな折、たまたま「廃部寸前だから入って!」と勧誘された空手部。ただの人助けのつもりで入部することにした。
私はそれまでずっと、兄と同じ選択をしてきた。幼小中高、しかも部活もすべて同じだった。これが人生初の兄と違う道を選んだことになる。
そして問題の進路調査。担任に、「文系だよな?」と聞かれた。
物理も生物も数学も赤点。全国模試で、全部計算して答えを埋めても、0点。逆にすごい。
現代文と古典は、勉強しなくても平均点くらいは取れる。完全に文系脳だった。
なのに、私はなんとなく理系を選んだ。担任に呼び出されても、頑固な私は「理系にします」と変えなかった。
今思えば、兄と比べられない進路・人生にしようと思ったんだと思う。高校に入ってからは、家庭内の環境がつらかった。母は、私と兄を比べ続けていた。家では、いつも叱責されていた。何をしても兄と比べられて、当時の私は頑張る気力が失せていた。
兄と、つい先日この話をした。そうしたら、「俺には、妹の方が出来が良いって言うてたぞ」と言われた。そんなの今更だ。私には、いつも鬼の形相で怒っている母の顔と辛らつな言葉たち、その記憶しか残っていない。
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受験大学は、実家から通えない大学のみを選定した。ただ受験に際して、母からの条件が2つあった。母指定の大学を1つ受験し、特待生を取る。国公立大と某有名私大系列のみの受験しかお金は出さない。
この2つの条件を吞み、E判定でもめげなかった。もう実家にいることがつらかった。原動力はこれだけだったと思う。
結果、センター試験(今でいう、共通テスト)で大失敗。志望校は足切りに合い、諦めざるをえなかった。そして、2次試験では、風邪をひいて、高熱の中の受験。もちろん不合格。私立大受験も全て不合格。A判定の出ていた滑り止めにすら滑る散々な結果だった。
結局、母指定の大学に特待生で行くことになっていた。私の人生、やっぱりこんなもんだよな、と自暴自棄になった。
大学入学1週間前、ある大学から通知が届いた。お昼までぐうたらしていた私に届いた郵便には「合格通知」と書かれていた。一度、不合格になったが、繰り上がり合格を知らせる通知だった。
1週間後、私は自分の人生を歩き出した。