30歳を目の前にして、私はボーカルに一目惚れをした。

男性アイドルやイケメン俳優を推したことはなかった。決して手に入らない、努力が報われない対象に使う労力が無駄だとと思っていた。私は好きになった男性とは必ず結ばれていたし、どのようにすれば相手が私を好きになってくれるかがなんとなく分かっていた。人を好きになることがあまりないからこそ、自分の好きという気持ちは大切にして行動にうつしてきた。だから、意中の人を目の前にして何も行動せずキャーキャー言ってるだけの女も、ましてや手も届きもしない対象に本気で熱くなっている女も理解できなかった。そんな私がステージで歌っている彼に対して抱いた感情を整理できずにいる。

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ラジオでたまたま流れた曲が好きで、サブクスで調べてみると、そのバンドの曲がすべて好みですぐにループして聞くようになった。ある日、そのバンドのリリース記念の無料ライブがCDショップで開催されることになった。人生で一度もライブに行きたいと思ったことがなかった私も、無料ならと行ってみることにした。無料イベントだが人は少なく、私はステージ最前列の中央でバンドの登場を待った。しばらくすると彼らが登場して早速1曲目がスタートした。CDショップの狭いイベントスペースだったので、ステージと客席の距離がなく、目の前でボーカルが歌っている。彼の歌がそのまま私に入ってくる。楽器の音も体にぶつかってくる。彼の声はいつもAirPodsで聴いているより頼りなく、声量が弱い気がした。それでも目の前に存在している彼の声を直接聴いているこの瞬間に感動した。ステージの中央でライトに照らされる彼がかっこよかった。もう彼らではなく、私の中では彼だけを見ていた。うっすらと首筋に汗をかいている姿や、目を閉じて一生懸命に歌う姿のすべてに惹かれていたはずなのに、この感情を知らなかった私には、その時は分からなかった。ライブ後のサイン会で、サインをもらいながらボーカルの彼と他愛もない話をした。1分も満たない時間だったと思う。すべてが終わって店を出た後、すごく高揚して気持ちが整理できず、一目惚れに気付くまで数日かかった。

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彼にとっては私は観客の1人。いや大勢の一部でしかない。でも私にとって彼はたった1人の大切な存在。彼と私を繋ぐのは彼の音楽と彼の好きなもの。彼の好きな音楽や小説を私も好きになることで繋がっている気持ちでいる。何故こんな気持ち悪いことをしているのか自分でも分からないし、惨めな気持ちにさせるボーカルの彼を憎らしいとも思う。でも、あの日のステージで輝いていた姿と、1分に満たない時間でも彼と話をできた事が鮮烈に私を捉えて離さない。彼の音楽を聴く度、彼のSNSを見る度、彼を想像する度に、枯れていた私の内側が濡れていく。安定の日々と引き換えに失った、瑞々しくも生臭い純粋な好きという気持ち。あの日からずっと彼のことで頭がいっぱいの私はおかしくなったのかもしれない。

彼はまだまだ駆け出しのバンドマン。私には優しい夫も安定した生活もある。同じ街に住んでいる私たちの人生が重なることはない。ステージと客席の間には絶対に超えられない深い溝がある。でも彼の音楽を聴いているときに物語は輝きはじめる。私は彼とひとつになった気がするのだ。絶対に報われない無駄な感情であっても、それで虚しい思いをしても、この感情を大切だと思えることがうれしかった。誰にも言えないこの感情を抱えながら、今日も彼の音楽を聴いている。