「ひとりでラーメン屋さんに入れないんだよね。だからラーメン屋さんって、数えるくらいしか行ったことないんだよね」
ぽつりとそうこぼしたら、「信じられない」と彼は呆れ顔で天を仰いだ。
「なんか、勇気が必要というか」
「勇気って何だよ。今どきひとりでラーメン食いに行く女なんていくらでもいるでしょ」
「他の人がどうとか、知らない。これは私の精神の問題」
「意味がわからない」
そんな会話をしている中で、「じゃあ、一緒に行くか」と彼にさらっと誘われた。
純粋に、嬉しかった。数えるくらいしかない記憶の中でも、ラーメンは「とびきり美味しいもの」として私の脳内にしっかり染み付いていた。お湯を注いで数分待つものではない、ホンモノのラーメンが食べられる。想像するだけで、腹に棲みつく虫が小躍りを始めそうだった。
ただ、それは建前のようでもあった。
本当は何が嬉しいって、彼に誘われたことだ。休みの日に、ふたりで会おうと言われたことだ。
彼がどういうつもりでいるのかはわからないものの、「これは、デート…?」とつい浮かれそうになってしまった。しかし、湧き上がってきたその期待に慌てて蓋をする。あの人に女友達が多いことは知っている。おそらく私のことも「仕事で知り合った仲の良い女」くらいにしか思っていないだろう。期待なんかしたら、きっと心に派手なケガを負う。
◎ ◎
彼と顔を合わせるのは、もっぱら仕事の日のみだった。仕事の際、私は長い髪をポニーテールに結わえ、ラフな格好をしていることが多かった。そんな自分が、髪を下ろしてロングスカートの裾を揺らしながら、彼と休日に会おうとしている。
待ち合わせ場所近くのベンチに深くもたれかかっていた彼は、目の前に現れた休日の私を見て「おす」と一言だけ挨拶をし、ゆっくり腰を上げた。
別に、気合いなんて入れていない。「いつもと雰囲気違うね」なんて言ってほしかったわけでもない。それでも無性にむすっとした気持ちが湧いてきて、「相変わらず座っている時の姿勢が悪いね」と軽めの文句だけ吐いておいた。
「ここはマジで美味い」と太鼓判を押す彼に連れられて訪れた店は、カウンター席のみのこじんまりとしたラーメン屋だった。席数が少ないからか、少しだけ店の外で待つことになった。
野ざらしで置かれた椅子に腰掛けた彼は「かゆい」と呟きながら、おもむろに眼鏡を外して目元をごしごしとこすり始めた。一度だけコンタクト姿を前に見たことがあったものの、裸眼の彼は何だか無防備で、「雰囲気違うね」とつい言葉が漏れた。ああ、さっきは彼が言ってくれなかった台詞だったのに。別に何かと勝負をしていたわけではないものの、一方的に負けたような気持ちになった。
◎ ◎
満席だったとはいえ、ラーメン屋は回転が早い。程なくして店内へ通され、注文後も比較的すぐに熱々のどんぶりが目の前にやって来た。
恥ずかしながら、私は麺を勢いよくすすることができない。もそもそとした独特の手つきで麺を口に運ぶスタイルにはなってしまったものの、それでも一口食べた瞬間、鶏の出汁の風味がすうっと鼻腔を通り抜けていった。すっきりとはしているけれども、同時に確かな深みも感じられる淡麗の味わい。久しぶりに食べたホンモノのラーメンは、身体の隅々までじんわりと染み渡った。
隣で豪快に麺をすする彼に、もしかしたら不恰好な食べ方を馬鹿にされるかもしれないと思ったけれど、「美味かったー」と彼は満足げに呟きながら店を後にした。「美味しかったね」と素直に応えたら、「でしょ?」とさらに彼の顔には屈託のない笑顔が広がった。
「穴が開きそうだから靴下買いたい」という彼の要望のもと寄り道をして、私たちは駅へと向かった。
新品の靴下が入った袋をぶら下げていた彼が、電車を待つホームでその腕をぷらぷらと大きく揺らした。白い袋が、かさかさ小さな音を立てて私の身体に当たる。明らかにわざとだということはわかっていたけれど、その戯れが何を意味するものなのかはあまり追及しないでおいた。
彼も私も、互いにとてもご機嫌だということは共通していた。はっきりと言葉にはせずとも、そこに漂う心地良い空気から感じ取れるものは確かにあった。
◎ ◎
翌日。
私と彼は、またもラーメン屋に向かうために並んで歩いていた。
元々、「2日連続で行かない?」という彼提案のラーメン屋巡り2days計画だった。
ただ、1日目と違うのは、隣を歩く彼と手を繋いでいるということだ。彼は当たり前のように左手を差し出してきて、私も抵抗なく右の手のひらでそれに応えた。
1日目の時点では、はっきりとした確信は持てていなかった。繰り返すようだが、勝手に先走って勝手に傷つくような真似はしたくなかった。
ただ、電車から降り、日が落ちて、1日が終わりへと近付いていくにつれ、唐突にその時はやって来た。
ただのお喋りが、急に互いの本音の確かめ合いになった。そうして、彼は言った。
「ずっと一緒にいてくれる?」
ラーメン屋にふたりで訪れるのは昨日と全く同じなのに、目に映る世界の見え方はまるで違った。右手から伝わってくる別の体温が、そうさせているのだろうか。あるいは、彼に「恋人」という新たな肩書きがついたことがスイッチになっているのだろうか。
鼻先をくすぐる春の匂いも、頭上に広がる空の青も、視線の先で点滅する信号機も、すべてが昨日よりくっきりとしたものに感じられた。
◎ ◎
2日目は、前日の淡麗系とは趣向を変えた濃厚豚骨ラーメンだった。
コシのある中太麺がまた食べ応え抜群で、ここでも私は身体の芯までとろけそうになった。
「美味しい」と食べながら呟くと、隣に座る彼が「よかった」と笑いかけてくれた。前日も同じようなやり取りをしたはずなのに、彼が向けてくる眼差しもより柔らかいものになったような気がした。
最初のデートがラーメンなんて、と中には思う人がいるのかもしれない。それでも、何年経ってもこうして鮮明に思い出せるくらい、私にとっては特別な2日間だった。
そして彼、もとい夫は今でも隣で言う。
「ねえ、ラーメン食いに行かない?」