有名塾講師の林修先生の名言にこのような言葉がある。
「努力は裏切らないっていう言葉は不正確だ。正しい場所で正しい方向で十分な量なされた努力は裏切らない」
初めてこの言葉を聞いた時、なんて冷たい言葉なんだろうと思った。林先生はこの言葉で、どういう努力が実を結ぶかについてのみ言及しているのに、私はこの言葉に対して、努力の過程は無視なんて冷たい!その過程で成長できることだってあるのに!と的外れなことを思ってしまったのだ。
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この感情が湧き起こったのは、林先生の言う正しい努力というものを私が微塵もしたことがなかったからだと思う。努力したふりをして逃げようと企み、努力したふりだけはどんどん上手になっていった私の人生。正しい努力をしていないのに、一丁前に、頑張ったのに!といつも悔しがっていた。
私が努力できなかった理由は何なのか。理由はたった一つ、低すぎる自己肯定感だ。どれくらい自己肯定感が低かったのかというと、子供の頃、防犯ブザーを持てなかったほどである。この話をすると、私と同じように自己肯定感が低すぎた過去を持つ人、或いは現在も自己肯定感がとても低い人からは共感されるが、そうでない人には不思議そうな顔をされ、どういうこと?と聞かれる。
どういうことかというと、私には防犯ブザーに守られる価値はないし、私を襲って満足する人がいるのなら私なんか襲われてしまえばいいと思っていた。もちろん犯罪に巻き込まれるのはとても怖いけれど、私のような価値のない人間は、そういう思いをしたって仕方がないと思っていたのである。それぐらい自己肯定感が低かった。そしてその自己肯定感の低さは大人になっても改善されず、つい数年前まで私はそれによって苦しんでいた。
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ここまで自己肯定感が低くなった理由は書くと長くなってしまうので、ここでは書かないが、こんなにも自己肯定感が低い状態で努力など到底できるはずがなかった。
自分を変えたくて、子どもの頃から色々なことにチャレンジしてきた。子どもの頃、その原動力は親に認められたいというものだったが、大人になり気がつけば、今のままの自分でいていいはずがない!変わらないと!という焦燥感が原動力となっていた。
そんな気持ちがベースでも正しく努力をして結果を出す人はいると思う。けれど、私にはできなかった。もし上手くいかなかったら?とか、あの子は何も頑張っていなさそうなのに楽しそうにしててずるい!とか、そんな不安や嫉妬が、頑張ろうと思えば思うほど私を襲った。どうしたら上手く行くのか、私は一生このままなのか、と怖くもなった。
しかし、そうやってもがき苦しみ、努力できなかった若き日々を過してきたが、20代終盤の今、最近努力できているかも?と思っている。年齢を重ねれば重ねるほど、日々が楽しくなっていて、昔感じていた焦燥感や不安、嫉妬を最近は感じなくなった。
ジタバタともがいて苦しんだ末に、良い意味で色々なことを諦めたからだと思っている。違う言い方をすれば、自分のことを良い部分も、直したい部分も、周りから見たら変かもしれないけど直したくないなと思っている部分も、全部丸っと受け入れてしまった。
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そして、良い意味での諦めを経験し、あんなに低かった自己肯定感も、気づけば人並みくらいにはなったと思う。自分の身を危険から守りたいと思うし、私だって日々を楽しみ、幸せになって良いと思っている。そこに後ろめたさはない。
来年、年が明けてすぐに私は30歳になる。その数字だけ見ると、自分はもうこんなに大人なのかと驚いてしまうけれど、もう30歳だから…30歳なのに…という焦りはなく、こんな30代になりたいな!30代はこんな風に楽しみたいな!という前向きな気持ちで日々生きられていると思う。理想の30代、そしてこれからの未来、楽しくワクワクして生きていくためには努力も必要。でも、今の私、そしてこれからの私なら大丈夫。きっと、正しい努力ができるはずだ。もうすぐ20代最後の夏を迎える。これからマイペースに、私らしく、楽しみながら理想の30代を生きるための準備をしていこうと思う。