過去を振り返ることは、正直な所あまり気が進まない。
いかにこれまで自分が逃げ続けてきたか、改めて思い知らされるからだ。

卒業まであと半年ほどだったにもかかわらず、急に不登校になった高3の初秋。
教室だけではなく、受験勉強も家族の存在も嫌になって、自分を取り巻くすべてのものから逃げ出そうとしていたあの頃。

その後進学はできたものの、今度は就職活動から逃げ出した。
授業にも出ず、キャンパス近くにある公共図書館で丸1日過ごす日々が続いたあの頃。

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新卒でなんとか就職はできたけれど、徐々に母との関係がぎくしゃくし始めた。
預金通帳の残高を毎月見つめ続け、「今だ」と思ったときに衝動的に家を出てひとり暮らしを始めたあの頃。ありがとうも、行ってきますも何も言わずに。

あくまで前向きな気持ちで転職を決意したのに、蓋を開けてみれば短期離職を複数回繰り返すことになってしまったあの頃。
コロナ禍だったことは関係ない。すべて私の気持ちの問題だ。
短いスパンで職を変えるのは良くないことだと頭ではわかっていた。それでも、どうしても踏ん張り続けることができなかった。

心療内科で渡された診断書を退職届と一緒に郵送で会社に送ったときは、あまりにも惨めだった。せめて、顔を合わせて対面で渡すのが礼儀だろうと思った。けれども当時の私は、会社へ出向こうと少しでも考えるだけで全身がすくむような臆病者に成り下がっていた。

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ただ、過去だけじゃない。
逃げの行為は、現在進行形で続いているのではないかという思いが少なからずある。

フリーランスという働き方。
言葉の響きは、自由で堂々とした印象を与えるのかもしれない。それでも心の片隅には「これ以上履歴書を汚したくないから、それらしい理由をつけて逃げただけなのではないか」そんな気持ちも燻っている。

きっと、自分のキャリアに自信がないからそう思うのだろう。
今ないものは、地道にもがいて手に入れるしかない。不器用でも、要領が悪くても、もがくことをやめなければ少しは前進するはずだ。そう信じて、亀のような速度で今の私は日々をなんとか歩いている。

逃げてよかったこと。
その答えを強いて挙げるならば、「今生きていること」これしかないと思う。
みっともない姿を晒しながら、私は今までたくさんのことから逃げ続けてきた。それらの選択が正しかったとは未だに思っていない。
それでも、どんなにみっともなくても無様でも、重ねてきた選択の先に今がある。苦し紛れだった「逃げ」の数々は、言ってみれば延命措置のようなものだった。

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逃げることは、生き永らえることなのかもしれない。
「生きてるだけで丸儲け」という言葉もあるが、死にさえしなければ、何とかなる。
苦しいだけ、つらいだけの毎日だったとしても、ひょんなことでふっと笑える瞬間があるかもしれない。美味しいごはんに幸せを感じる瞬間があるかもしれない。

逃げ続けてきた自分の未来に何が待っているのか、どこへ向かっていくのかは、未だにぼんやりしている。
それでも、足の裏からは確かな地面の感触が伝わってくる。遠くは見えなくても、目の前にある道に向かって一歩を踏み出すことはできる。

それだけで十分なんじゃないかと、今の私は思う。
そもそも未来のことなんて、誰にもわからない。どんなに計画的に生きていたって、思わぬことでひっくり返ってしまう可能性だってあるかもしれない。

だったら、「今この瞬間」に全力を出したい。そのとき湧いてきた感情に、どこまでも素直でありたい。
これが、逃げることを散々繰り返してきた私がたどり着いた、私なりの生き方だ。