ありすぎる、選択肢が。
多様性とか、改革とか、分かっている、皆が生きやすいように、開けた世界であるように。
誰も悪くなれなんて願って増えたり生まれたものなわけじゃない。
結婚と幸せをイコールで結びつけなくても良い世の中になったことはありがたい。だけど、その分より自分にとっての幸せがなんなのか考えるスペースが広がった。それは自由が増えたと捉えるべきか、考えごとが増えてしまったと捉えるべきか…
幸せを考える時間が幸せじゃないなんて本末転倒だ。
◎ ◎
私は未婚だ。
月並みな言葉だけど、結婚がしたくないわけじゃない。何よりどうしたって仕事や遊びと違って結婚は1人じゃ出来ない。
今どうしても聞きたいことがある。高校生の頃、私に“結婚が早そう”と言った友人にその理由を、その答えによっては今の私と比較して結婚出来ていない理由が見えてくるかもしれない。なんてくだらないことをふとした瞬間に考えふける事がある。
田舎の地元の友人達はほとんど結婚していて、子供までいる。とても幸せそうだし、本人達も幸せだと言う。私もそれを聞くとまさに胸がいっぱいになり勝手に幸せを分けてもらった気になる。
一番親しい親友がLINEで妊娠したことを知らせてくれた時は画面越しに涙ぐんだりもした。
こんな風に、結婚という言葉を聞くと心が華やぐし祝福の気持ちで穏やかにもなる。そして思う、果たして私にもこの類いの幸せを感じられる時は来るのだろうかと。
“結婚だけが幸せじゃない”というワードには共感する。だけどそもそも幸せをひとつしか持ってはいけない決まりはない、結婚以外の幸せだって人生にはいくつもある。こんな風に言うと欲張りや結婚から逃げているみたいに思われるのだろうか。
幸せにはいつだって気持ちが寄り添っている。
結婚が幸せなのは、“この人と一緒にいたい”“この人と家族になりたい”それらの気持ちが叶ったから幸せなんだろうと思う。
◎ ◎
それで言うと今の私は違う。
好きな人はいる。結婚は出来るならしたい。
その好きな人は私と同じ気持ちではない。それに、私は強くは結婚を望んでいない。きっと“出来るなら”くらいの気持ちの人間にそのいつかは来ないのだろうと年齢を重ねる度憶測から確信に変わっていく。
だけど、年齢を重ねる度に思うのはそれだけではなく、どうしたって親への思いが顔を覗かせる。こればかりはコントロールが効かないのだ。
これにはレベルがあると思っていて、「この間同級生のお母さんに会ったけどその子のお姉さん結婚するんだって、これでまだなのはあなたと同級生の2人だけじゃない?」表情と声色から冗談交じりが伺える。
まだ、冗談交じりに返せるレベルにいる。きっともう何年か後には意識的にこの手の話題には触れなくなるのだろう。それは、想像するだけでなんだか心が痛むのだ。なぜだろう。
きっと、結婚だけが幸せじゃないと言いつつも、結婚も幸せのひとつだと自覚はしているのだ。それも自分以外の人達も巻き込めることを。だから結婚の出来ていない自分を思うと対のように親のことが思い出されて心が痛むのだろう。
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ここまで色々言ってきたが、総じて結婚を幸せのカテゴリーに入れたいように見えたことに気付く。
もちろん新しく家族を築くのだから簡単な訳がない、それでも一緒にいたい、一緒に乗り越えたいそんな隣に居たい想いが幸せへの歩を進めるのだ。だから幸せのひとつにしたいのだ。
もちろんそうではない声もある。
実際自分の意思で決めたはずの結婚を自分の意思で終わらせることもある。だけどそれだって辿りに辿れば未来の自分の為であり、不幸になりたいが為の決定ではない、とすれば…
やはり結婚とは幸せの一種である。
願わくば、もう少し他の幸せとボリュームの足並みが揃うと個人的にはありがたいとも思わなくはないけれど。