介護の意識調査では、女性と男性の間に大きな乖離があることが言われている。女性は家族の介護をすることへの抵抗は少ないが、自身を家族に介護されることは好まない。

一方で、男性は家族への介護は業者などに委託することを好み、自身は家族から介護されたい気持ちが強い。男女差が見られる興味深い結果だと思う。

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ここでの男女差を解釈する1つは、女性は家族などの身内に身体を触れることに抵抗感を抱くということ。それは女性の私でも思うことだ。老後、顔の知れた人に体を触られるくらいなら、全くの他人に触られる方がいい。身内にほど隠したいと思うこの身体。
この心理はとてもよくわかる。

美容整形も、この心理に根付いているように感じる。
自分のことを知らない人ばかりの世界線で生きていけるのであれば、無人島に一人でいるのであれば、美容整形のニーズは減るのではないだろうか。
しかし、常に「わたし」を「わたし」と認識される中で生きていかなければならない時、「隠す必要がない」身体になりたいと思うのは自然な感情の発生に思える。

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私自身、中学生の頃にくっきりした並行二重瞼に憧れ、学生の間はずっとアイプチをして生きてきた。中学生の頃は部活を引退するまでは汗で取れてしまうために控えていたが、引退すると同時に学校にもアイプチをして行くようになった。

高校生に上がると、今まで真剣にプレーしていたバスケットボールとアイプチを天秤にかけて、化粧が落ちることはしたくない一心で部活に所属しない道を選んだ。どんなに遅刻しそうな朝でも、アイプチをしないで登校することはなかった。プールの授業では、水に浸った瞬間からゴーグルを外さず、更衣室に入ると直ぐにアイプチをし直すなど徹底して私の素顔を誰かに見られることがないように努めた。

アイプチをしなくなった現在でも、あの時の気持ちは理解できる。決して、若気の至りなどとは思わない。

だから社会人になって教員として学校勤務をしていた時は、アイプチを外せと先生に言われて泣いて抵抗している女子生徒の姿を見てひどく胸が痛んだ。
たった一つの瞼のくぼみ。これがいかに死活問題なのかは理解できない人もいるだろう。
近しい人にほどアイプチを外した目を見てほしくない気持ちは痛いほどわかった。

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きっと、アイプチをはじめとする化粧と整形に心理的な大きな違いはない。
よく、化粧をしなくてもいいならしないで会社に行く、と言う人もいるが、実際にその道を選ぶかはわからない。もはや、ありえない仮定話だからこその発言のようにも感じる。
私たちは、特に女性と限定して差し支えないだろう、自分の身体との距離感が遠い。それは顔も同じだ。

どこか自分の身体をそのまま受け入れること、理解することを拒む傾向にある。
その傾向は性の主体者/行為者へのなりづらさにも通じるように思える。
性にオープンになれないのも、自分の身体を触ることに躊躇いを感じ、そういった話すらすることにタブー意識を感じているからなのかもしれない。

整形をするから自分の身体に興味があるのではなく、本当はその逆で、「隠すため」の一つの選択とも理解することはできる。
もしくは、「隠したい」と思う気持ちと決別するための選択とも言えるだろう。

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私がアイプチをやめたのは、大きなきっかけがあったわけではない。
いつしか価値観が変わり、瞼のくぼみよりも、ノーズシャドウやハイライトなどの顔のメリハリに興味がうつったから。ただそれだけだ。
そういう意味では、隠したい気持ちに変化はない。

きっとまた隠したい箇所は変わるだろう。それでも私は隠し続ける。次はシミ隠しのコンシーラーかなとフラグすらたっている。
主体性がないと言われても、ありのままじゃないと言われても、自分の腕で自分をハグするために隠す必要があるのであれば、私はこれからも「わたし」と決別しないために隠し続けるだろう。