実家に帰省して改めて感じたのだが、どうやら私はローディングが長いらしい。つまり優柔不断でちょっとした選択にも時間がかかるのだ。
例えばお昼ごはん。母と毎回するやり取りはこんな感じ。

母:「お昼どうする?」
私:「うーん」
母:「パンかパンじゃないか」
私:「パン、だね(パン好き)」
母:「じゃあどこにしよう」
私:「うーん……」
母:「今日は◯曜日だからどこもやってるはず」
私:「うーん……逆に行きたい所ある?」
母:「そうだね……特にないかな」
私:「ないかー」
母:「特に新しいお店もないしねえ」

このへんまで来てまだ決まらない場合、スマホを取り出してSNSで情報収集をし始める。そして結局これ! というものがないまま「とりあえず買いに行くのは決まったから出ようか」とどちらかが提案、なんやかんや話ながら準備と乗車を済ませ、シートベルトを締めたあたりで「結局どこにするか決めてなかったね」と笑い合うのだった。

夕食を聞かれるときも長考に長考を重ね、「今は思いつかないな」と言ったときには「まだ考えてたんだ笑」と返されたことも1度や2度ではない。コンビニでご飯やデザートを決めるときも5分くらい悩んだ挙げ句、結局別のコンビニに行かせてもらうなんてこともあった。

しかしこれは話題が超日常的で、かつ相手が母だからこそギリギリ許されていたこと。それに気づいたのは社会に出てからだった。

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職場でも先輩に聞かれたことに対して「うーん」と頭を悩ませていると、「それは相手の時間を奪う行為だから。わからないでもいいから何か言ってほしい」というようなことを言われたことがある。

至極真っ当な指摘だ。意見を決められないのは自分にとっても苦しいが、それをただ待っている相手のほうがもっと苦しい。特に職場は家や学校よりもスピードが求められる。そのことに気付かされた私は、とりあえず何か言わないとと頭をフル回転させるようになった。

しかしフル回転させたところでそんなに早くなるわけでもない。さらに正直なところその先輩が苦手だったので、緊張感によりさらに言葉が出にくくなっていた。

たとえ答えを思いついても『間違ったことを言って苛つかせたら……』という恐怖心が生まてしまう。そもそも答えを出すのが遅いのに、さらに導き出された答えが本当に適切なのかを審議せずにはいられなくなるのだ。

スピード感の無さに落ち込む私に、ある友人が「遅いんじゃなくて慎重なんだなって思うよ」とフォローしてくれたことがある。

自分を正当化したいわけではないが、私としても慎重さは大事だと思っている。テキパキ進められるのも素晴らしいことだけど、その分必ず何かがこぼれ落ちていく。それは優先度としては低いものかもしれないし、あるいは誰かの感情かもしれない。

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私は時に「些末な」と言われてしまいがちな、本質以外の部分に着目してしまうのかもしれない。最善択を掴もうという気持ちはテキパキタイプと同じでも、様々な要素を検討しすぎる結果たどり着かなくなっているのだとしたら、そこは捨てるべきなのだろうか。

場合によってはそうかもしれない。しかしそれが全てなはずはない。

強欲かもしれないが、私はどちらも使いこなせるようになりたい。シャキッと決めるところは決めて、じっくり悩むところはとことん悩む。自分や相手が何を大事にしているのかをキャッチして、それに応じて最善択を提示したい。

慎重ということは細かなものも見えているということだから、それの取捨選択をできるようになればいい。新たに見つけようとするよりも簡単なはずなのだ……と自分に言い聞かせてみる。

翻って、パンの話はシャキッと決めるべき事象なのだろうか。母がどう思っているかはわからないけれど、私はあのグダグダな時間も楽しいからそのままにしておきたいかもと思っている。