私を形成する要素の一つとして、"面白さ(ユニークさ)"を挙げてもらうととても嬉しい。そして手前味噌ながら「瀬璃の話って面白いよね」と言われることが多い。頼りになるとかかわいいとか、ありとあらゆる褒め言葉の中で"面白い"と言われることが至高になったのは、物心ついた頃からだった。

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私の家庭は笑いが絶えない家庭だった。ドライブに出かければ誰からともなくゲーム(しりとりとか古今東西とか)が始まるし、くだらない言葉遊びをしては腹を抱えて笑う。両親ともに面白いことが好きで、私にも兄弟にもその血は遺伝した。

だからこそと言うべきか、両親(特に母)は笑いに厳しい人だった。小学生に上がってすぐの頃、家に帰って学校であった面白いことを話そうと「今日めっちゃ面白いことがあってね」と切り出すとこう言われた。

「それ本当に面白い?」

ヒヤッとする。え、と一瞬考える。めちゃくちゃ笑った出来事だから面白いはずなのに、母にそう言われると本当に面白い出来事だったかわからなくなる。わからないがとりあえず渋々話すと、案の定「ふーん」と言われてしまう。

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落ち込んだ。私が面白いと思った出来事は母にとっては大して面白いことではなかった。落ち込んだが、私はそのことに大して"何故か"を追求するようになった。普段は同じ出来事で笑いあえているから笑いのツボや感覚は似ているはずなのだ。それなのに私が話すと、それは面白いことではなくなってしまう。

ああ、そうか、私の話し方が下手なのか。"面白いことがあってね"と切り出すから相手の期待値は無駄に上がってしまうし、オチがしっかりしていないと本当につまらない話になる。

母の話は面白かった。母が話し始めるとワクワクしながら耳を傾けた。それは出来事どうこうよりも母の話し方が好きだったのだ。

だから真似た。母の話し方も、芸人のトークも、オチのつけ方も話の盛り上げ方や強弱のつけ方も、真似て真似て、私はようやく母に笑ってもらえるほどの話術を身につけた。

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けれど話術というのは言語と同じで、話し続けていないと感覚を忘れる。だから私は未だに面白い出来事が起こると"誰かに話す設定で"独り言を呟いてしまう。

「今日一人で大衆の中華料理屋行ったんだけどさ、私結構オシャレしてて周りおじさんばっかりでいたたまれなかったの。うわー恥ずいなぁとか思いながらカウンター席座ったらさ、数分後にマーメイドスカート着た女の人が向かい側に座ってね。それだけでもめちゃくちゃ救われたのに、その子その店で自撮りし始めてさ。え?みたいな。床ベッタベタの店でマーメイドスカート着た女の子がレバニラ定食頼んで上目遣いで自撮りしとると思ったら、恥ずかしいと思った自分が恥ずかしかったよね」

これぜんぶ独り言である。シャワーを浴びているときやトイレのときにぶつぶつと呟いてしまう。友だちと会ったときにいつ沈黙が訪れて「そういえば」といつでも切り出せるように、常に面白い話の引き出しを増やしておくのだ。

この癖は誰にも言えない。言ったら私がする面白い話はぜんぶ「これも事前準備してきたんだろうな」と思われてしまう。顔も知らないここでしか言えない最大の秘密である。