あの人に謝りたい。私にとって真っ先に浮かんだ「あの人」は父だった。
私が小学生に上がった折、父と母は離婚した。父のDVが原因だった。原因が原因なだけに、なのか自分が幼かったせいなのかは難しいところなのだが、父が私にとって存在の薄い、ほぼ他人に等しい存在になるのにそう時間はかからなかった。
それゆえに、祖母らから時折投げかけられる「お父さんに会いたいか?」という質問に対して、その顔は私に、情緒たっぷりに「会いたい・・・」とでも言って欲しそうだったが、もはや他人である人間に対して会いたいなどという感情はミリとも芽生えるはずもなく、「うーん・・・」と唸るほかなかったのであった。
家庭内でもタブーな話題になり、音信不通だった父から届いた年賀状
いつだったか、戸棚の奥に父からの手紙が隠されているのを見つけたことがある。その文面には養育費の支払いを待って欲しいだとかいうものだったと記憶しているが、内容の如何はこどもの私にとっては重要ではなく、なるほどその時、父の話題というのは隠すべきもの=タブーなのだと強く認識したのだった。面会交流も一度としてなかったので、事実上父とは音信不通となった。
そうして社会人になったある年のこと。私の勤務する会社宛に父からの年賀状が届いた。
内容はFacebookから私の勤め先を探し当てたこと、文末には電話番号と、LINE追加希望と、全体的に引くほど汚い字で書かれていた。だがその字は戸棚から手紙を見つけたあの時を思い出させるのに十分すぎるほど変わらないものであった。
その時私の中の父という存在が、一般的に想起させる父と同じものに近づいたかといわれるとそんなことは全くない、と思う。おそらく。限りなく他人に近い存在であるのには変わりなかった。ただ、連絡をしたら、私のなかで父という存在は一体どうなるのだろうという好奇心は芽生えた。
異様に明るい父に怒りの言葉を放って連絡は終わり、再び音信不通に
結論からいうと連絡はほぼ未遂に終わる。一言目からなぜだか異様に軽いノリの父に憤慨し、まくし立てるように怒りの言葉を放ってしまった私に対し、謝罪の言葉を述べ、それ以降また音信不通となってしまったのである。
よくよく考えると、この時点で怒りという到底他人には抱けるはずのない感情が出たということは、私にとっての父という存在は他人に近しいところに追いやられていたに過ぎず、父はどうしたって父だったのだなとも思う。
父に謝りたい。他人に過ぎないと言い聞かせ、私を他人から見て、片親の、可哀想で哀れな子、という存在に貶めた分だけ、あなたを傷つけても良いと判断した。そのための言葉を、努めて明るく振舞うあなたに浴びせてしまった。
パパ、ごめんね。怒りの言葉はすべて本心だけど、もう少しだけ話してみたかった。今元気でいますか?今どこで、何を見て、何を感じていますか?私のことを思い出す日はありますか?
私にとってのあなたは、他人なんかではなく、代わりのいないただ一人の「父」でした。