私にとって最強のデート、それは一杯のラーメンだ。当時、私と彼女は高校生で高校は一緒だったけれど住んでいる場所は遠く離れていたから、学校が終わって二人きりでいられる時間はそう多くなかった。

同級生に見つからないように学校の最寄と彼女の最寄の中間の駅で降りて、お茶をするか、少し早めの夕飯を共にするか、それが私達の「いつものパターン」だった。

◎          ◎

時間にしてたった数時間だったけれど、他愛もない話をしてて手を繋いで歩いて別れを惜しんで、とても幸せな時間を過ごしていた。そんな私達が、ある日放課後デートに選んだのはラーメン屋さん。

通学に時間を取られてろくにアルバイトもできない高校生にとって、高ければ一杯1000円近くするラーメン屋は他の安価でチェーン店よりも少しだけ敷居が高いものだったけれど、その日は確か給料日を迎えた後でお互いにテンションが上がっていたのだと思う。

食券を購入し、席についてしばらくすると運ばれてきた2杯のラーメン。さっそく箸を持ち上げて食べようとする私と対照的に、彼女は箸をつけることを躊躇っているようだった。

どうしたのかと尋ねてみると、彼女が言ったのは「ネギが…」という一言。確かに私のラーメンにも彼女のラーメンにも、トッピングとして生のネギが盛られていた。

◎          ◎

その時まで知らなかったのだが、彼女はネギが嫌いで特に生のネギはどうしても食べられないのだそうだ。私は逆にそうした薬味の類は大抵大好きで、もちろんネギも大歓迎だった。私と彼女は物事の興味や話のテンポや、笑いのツボなど沢山のことがよく合っていたから、こんな些細な違いがその時はやたらと新鮮に感じられた。

「食べてくれない?」という彼女の一言で、彼女のラーメンから大移動したネギは、私のラーメンの器の中で少し誇らしげにこんもりと盛られている。食事という生活を感じられる場面で相手から頼りにされていることは不思議な高揚感を私に与えてくれ、それ以上に嬉しかったのは、きっとこれからも彼女はネギを私に食べてもらい続けようとするだろうし、私はそれを受け入れ続けるだろうという予感がしたからだ。

その予感通り、私達はそれからも何度となくラーメン屋さんに足を運び、ネギの大移動を行った。今考えてみれば、食券を渡す時にただ一言「ネギを抜いてください」といえば対応してもらえたはずだ。けれど、彼女は気づいていたのかいなかったのか、いつもラーメンが届いてから私の方へそっと器を寄せるのだ。

私は気づいていたけれど気づかないふりをしていたから、そうして彼女が甘えてくれるのが嬉しかったしこのままずっと気づかないでいいと思っていた。

◎          ◎

今となってはそのラーメンが醤油だったのか塩だったのか味噌だったのかとんこつだったのかすらも思い出せないけれど、彼女の器にひとつもネギが残らないように気を付けてスープと向き合った瞬間は今でも思い出せる。

相手のために何かをしてあげるという行為は、ともすると押しつけになってしまったり、「こんなに良くしてあげたのに」という感情を呼び起こしてしまう危険性もあるけれど、彼女の為にネギを処理する行為は、お互いに無理することもなく負担でもなく、それこそ「ごちそうさまでした」とでも言いたくなるような心もおなかも満たしてくれることだった。

誰かと付き合うという、大げさに言えば他人と寄り添って生きていくことの尊さの一端のようなものを高校生の私はあの時初めて覚えたのではないかと思う。

例え好きなものが完璧に同じでなくとも、いや好きなものが違うからこそ合うこともあるということ、相手の嫌いなことを自分が補ってあげられるということ、そして何よりも、どんなささやかなことでも好きな人に必要とされることの喜びを私に教えてくれたこのデートは今でも、私を誰かを愛することに対して最強にさせてくれる。