年明けのエッセイでも伝えたが、私には憧れの人が二人いる。
年明け宣言の際に「私愛らしくなります」と言ったが、それはこの二人を見て考えたことだった。

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私はもう年齢を数えることをやめた人ではあるが、世間的には30歳になろうとしている。世間は稀に「年相応のことをしろ」だとか「結婚はまだか」とか「孫の顔がみたい」だとかよく聞くあれそれを私に向かって言ってくる。それが悪いことだとは思わないが、私はきっとその人たちの期待には応えることはできないのだと思う。だって、それは私が望む私像ではないから。

私の憧れの人は、一人はもう亡くなってしまったので歳を重ねることはないが、最後まで愛らしい人だった。もう一人は私より少しだけ年上だけれど、たくさんの人に愛されて美しい人だ。二人とも言葉選びが丁寧で、愛嬌のある笑顔が印象的な人たちである。

私は生きていくうえで、そんな人間になりたいと心から思っている。
そのうえで、このように憧れの人がいることはとても幸運なことだと思っている。だって、いなくても生きていける世の中で、「こうはなりたくない」と思うことが簡単になってしまう世の中で、私は素敵な目標と出会ったのだから。こんなことはそう容易にあるわけではない。

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決められた人生が嫌だとか、ありきたりな言葉が嫌だとか、そういうわけではない。ただ、それをする前に私は憧れの人のように人間として魅力的になって、自分のことを好いてやりたいのだ。そのうえで、自分自身の人生を考えていきたい。

たぶん、周囲からすると「それでは遅すぎる!」と言われてしまうのかもしれない。今だって、十分せっつかれているのを感じている。それでも、やっぱり私は自分自身のことを認めたり、肯定できたりするようになりたいのだ。彼女たちのように表舞台でキラキラと輝きたいと言っているわけではない。

ただ、少しだけ近づきたい。彼女たちのように丁寧な言葉選びをして、愛嬌のある笑顔を浮かべて、そうしながら「なんかあの人感じがいいよね」なんて言われるような人生を歩みたい。そのお手本がいるという事実がまず、とても幸せだということを私は十分に感じている。

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今回のテーマであげたのは、どちらも表舞台の人のことだったが、日常的にも魅力的な人は多い。少し接客をしていただいただけで幸せになるような人、何故か話していると落ち着く人。そんな人たちに囲まれていることや、それに気づけていることに心から幸せを感じている。きっと、自分が無意識に憧れの人を意識していて、その人たちが心の中に棲んでいるからなのだろう。それを私は幸せだとはっきりと思う。

生き方は様々だが、私のように憧れの人を見つけてから、日常生活で素敵な人と出会う経験をしたことがある人も少なくないだろう。それはとても幸運なことだ。当たり前ではない。

一方で、憧れの人を持たず生きていく人たちの生き方もかっこいいと勝手に思ってしまう。このテーマで、たくさんの方のエッセイが読めることとても楽しみで、自分の人生を見つめる時間にできたらと心から思っている。