朝の満員電車。オフィスカジュアルに身を包み、パンプスを履いた私は、人と人の間に挟まるようにしてかろうじて手元のテキストを開いた。

瞬間、視界を埋め尽くす意味不明な文字の羅列。ついこの間まであんなにワクワクしながら読み解いていた魔法のような文字なのに、今は呪いの呪文にしか見えないのは一体なぜ?
ぶちん、自分の中で何かが切れる音がして、私は心に誓った。
よし、仏検の受検、やめちゃおう!

◎          ◎

この春、私は社会人になった。「就職したばかりの時は残業も発生しづらいし、この時期に資格試験を沢山受けておくことがおすすめです!」という自分磨き系インフルエンサーの投稿に影響されて、「よーし、私も今のうちに色々勉強しとこう!」と決めた4月頭。

大学で専攻していたフランス語の勉強を続け、フランス語検定(通称仏検)を受けようとしていたのだが、ぶちん。結局やめてしまった。私は学んだ。どれほど好きなものや楽しいものも、一定数の「義務」の色を帯びると嫌になってしまうことがあるということを…。

通勤・退勤しながら、電車の中で単語帳を開き、職場の昼休みにはデスクで問題を解く。
ただでさえ慣れない社会人生活。働きながら勉強するのが、だんだん嫌になってきた。学生の頃はあれだけワクワクしていた魔法の文字みたいなフランス語、今となっては呪いの呪文に見えてくる。

◎          ◎

ぶちん、私の我慢の糸はある日突然切れた。
こんな気持ちで勉強してても、全っ然、全っ然楽しくない!!
もういいや、とりあえず今回は仏検の受検やめちゃえ!!

それからは、私は仏検の勉強を一切やめた。受検申し込みもしなかった。通勤・退勤時間も、職場の昼休みも、ひたすら好きな本を読んでいた。
新しい一冊を手に取る度に、新しい一ページをめくる度に、どれほどときめきと、感動と、勇気をもらっただろう。

ある時は、去年逝去した英国女王の写真集をめくり、美しい色彩にあふれた贅沢なファッションショーの世界に浸って。
ある時は、500年に一人の逸材と呼ばれた奇跡の女優の生き方を描いたエッセイに、こんんな風に強く生きたいと背中を押されて。
またある時は、仕事に恋に悩みながら生きる若者の姿を捉えた小説に、「格好悪く悩んだり惑ったりしているのは自分だけじゃない」と胸を撫で下ろして。 

◎          ◎

そんな風に、好きな本を好きなだけ自由に読みまくっていたら、不思議だな、何だかフランス語が恋しくなってきた。背中を向けて逃げていた「勉強」に、もう一回向き合いたくなってきた。

以前は新しい動画が出る度にチェックしていた、フランス人ユーチューバーのチャンネル。久しぶりに開いてみたら、新しい動画が沢山出ていた。とりあえずその中の一つを再生してみれば、聞き慣れた声がペラペラと美しいフランス語を話し始める。

全部はとても聞き取れないけれど、言葉のかたまりでなら何となく拾える。良かった、しばらくサボっていたけれど、ゼロの状態には戻っていないみたいだ。
ていうか、別にサボる前もそんなに聞き取れていたわけではないんだけどね…。

◎          ◎

今、私は再びフランス語を勉強している。と言っても、当分は前述のユーチューバーの動画を見ているだけ。もうちょっと本腰入れたいなって思ったら、また単語帳や問題集を開いてみようかと思う。6月の夏季受検から逃げた私には、仏検の受検チャンスは今年はあと1回、11月に行われる冬季受検のみだ。

その時私が受検申し込みをするのかは分からない。私のなかの、ぶちん、はまだそこにしっかりと存在していて、今すぐがっつり勉強を再開したいという気分にはなかなかさせてくれない。当分はのらりくらり水中を漂うにして、ユーチューブを聞き流すだけの、勉強とも言えない勉強を続けるだろう。

  一つだけ言えることがある。今回は、夏季は仏検から逃げて良かったなということだ。ぶちん、を見て見ぬふりして勉強しても全然楽しくなかっただろうし、仏検本番も不合格で終わっていたと思う。そしてそのまま、私はフランス語を嫌いになっていただろう。

◎          ◎

何かを好きなままでい続けるには、まっすぐひたむきに向き合うことよりも、時には背中を向けて距離を置いちゃうことが効果的なこともあるのだ。
れるほどの情熱を、愛をひたむきに「何か」に注ぎ続けていると、その内それが枯渇してしまう日がくることもある。

その時に、私に、私たちにとって必要なのは、じゃあもうおしまいと一方的に突き放すことでも、無理をして形だけの想いをぶつけ続けることでもない。
今は一旦お休み〜という姿勢で、ふらふら、ぶらぶらと、当てもなく散歩道を歩くように距離を置いて過ごすこと。

「何か」が恋しくなってくる時には、その散歩道が「何か」とあなたを再びめぐり合わせてくれるだろう。

前から歩いてくる通行人の服に、見覚えのある外国語が書かれている。大丈夫、今の私にはもう呪いの言葉には見えないから。
ちらりと横目でその魔法の文字を解読すると、少し微笑んで私は一歩を踏み出した。