「書かずには生きられない」私にとって、文章を書く上でのロールモデルは、ライターの雨宮まみさんだ。目標などとは恐れおおくて言えないけれど、きっと「書く」ということを続ける限り死ぬまで規範にし続けるライターさんだと思う。

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雨宮まみさんのことを知ったきっかけはたまたま見かけた人生相談に乗る連載だったと記憶している。
どんなに重い内容でも、相談者の弱さや痛みにそっと寄り添いながら、一杯のお茶を差し出すように綴られる温かい言葉達に何度も涙した。
画面越しであっても言葉だけでここまで人は人に寄り添うことができるのだと教えてもらった。

そして雨宮さんの言葉がもっと欲しくなり著書である「女子をこじらせて」に辿り着き読んだ時、
女性として生まれ戸籍上も女性でありながら、うまく「女子」や「娘」をやることができなくて自分を失敗作のように感じていた私は、物凄く救われてしまった。

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昔からファンタジー小説が好きで、本を読むことが現実逃避手段だった私は、
現実の世界で誰かが書いた文章でこんなにも救われることがあると知り、
もしも、自分も文章を書く時が来たらこんな風に誰かを掬い上げられる言葉を、誰かがそれを読んで「ひとりじゃない」と思えるような文を綴れるようになりたいと思った。私がそうだったように。

そして、何となくこうも思った。きっと雨宮さんも「書かずには生きられない人」なのだろうと。自分の考えていること、自分に起きたこと、自分の生きている道、その瞬間瞬間に生まれる感情の発露を言語化せずにはいられない人。

その当時、まだ10代だった私も同じように自分の中に思考や感情が常に渦巻いていて、その渦は綺麗な感情よりも「なぜ自分は皆と違うのだろう」という疑問や少しでも世の中が決めた幸福の形からはみ出すと異物扱いしてくる世間への怒りなど、どちらかといえば暗く、醜く、汚い感情が占めていた。

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もしも、それを言語化して形あるものとして認め上げることができなければ、文章にして昇華させてあげることができなければ、私は自分自身の思考に押しつぶされ、行き場のない感情が爆発して、今この場にいられなかったかもしれないと思う。

「書かずには生きられない」けれど、雨宮さんのエッセイに出会うまで私は自分以外の人の目に触れる場所に出す言葉は、綺麗なものではなければいけないと思っていた。

けれど、雨宮さんの書く言葉達は表現はとても美しいけれど、自分の弱さや痛みや、どうにもならなさを隠してはいない。怒りや嫉妬、不安という傍から見たら醜いとされるような感情も、一つ一つ拾い上げて解きほぐし、言葉にしている。

だからこそ、雨宮さんに相談した人達も自分達の地獄をさらけ出すことができたのだと思う。

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絶え間ない思考と醜い感情から逃げないと決めてから、自分の思考を掘り下げたり、感情を言語化することは、それ自体がとても苦しいことで、逃げ出したくなる時も沢山あるし、その苦しさを超えて文章に心ない言葉を投げかけられることもある。

けれど時々、自分が呟いた言葉や書いた文章を読んでくれた人に「あなたの書く文章が好き」「救われた」と言ってもらえることがあって、少しはこうなりたいと思った自分に近づけているのではないかと思う。

いつか雨宮さんに相談に乗ってもらうという夢はもう叶えられないけれど、もしかしたらこの苦しみを雨宮さんも味わったのかもしれないと考えると書いている時に「ひとりじゃない」と感じられるのはとても幸せなことだ。

自らも弱さや痛みを抱えながら、人の弱さや痛みに寄り添ってくれた雨宮さんのように、自分の弱さや痛みと向き合い、文章として形にしていきたい、そして言葉で誰かに寄り添えたらと願って私はこれからも書き続ける。