酒を飲む前に酒を飲む、という人は、どのくらいいるのだろうか。むろん自分は当てはまるが、私の周りにも23人、いる。

そりゃそうだと思われる理由。自信のなさ。話すこと自体に対する不安。疎外感。その他受動的なマイナス要素。しかし、私はそれだけではないと思う。酒の前に酒を飲む人は、きっと人が好きな人だ。少なくとも私はそうだ。先述の23人も、おそらくそうだ。

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黒目が右往左往していたのに、ある段階(第一形態)から饒舌になって、第二形態では二軒目へ行くことを当たり前のように提案し、泥酔(第三形態)したら隣の人と肩を組み、ひどければ歌う。

ーー 優しいゴジラのようなものだ。

さて、肩を組み千鳥足で歌っていたのに、なぜか翌朝は、目も当てられないほど憂鬱になる。前日なにをしたかは、さほど問題ではない。明るい気持ちになったこと自体を悔いて、「あゞ〜〜!!」と叫びながらカーテンをぴっちり閉め、死んだ魚の目で水をがぶ飲みする。

なぜプラスの要素を悔いるのかというと、「酒を飲むために酒を飲む」という行為が、次回も必須になるからだ。とくに、その場に初対面の人がいたら、それは必須どころではなく使命になる。使命だし運命。逃れられない。

なぜ逃れられないのか。それは、相手が「フレンドリーな自分」を、自分として認識しているからだ。落胆させたくない、という防衛本能が働いてしまう。「引っ込み思案な自分」を絶対に見せてはいけない、という強迫観念が生まれてしまう。

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でも、本当にそうなのだろうか。優しいゴジラと化した自分は、ギャップによって相手を落胆させるくらい、普段とまったく違うのだろうか。

意外とそうでもない、ということに、最近私は気づいた(遅すぎるか)。「酒が人をアカンようにするのではなくその人が元々アカン人だということを酒が暴く」という言葉があるが、とんでもなく言い得て妙だと思う。もう人生の座右の銘にしてしまおうかしらと思うくらいに、心に刻んでおきたい言葉だ。Tシャツが欲しい。(探してみたら、あった。みんな同じことを思っているのだろうか)

そして、暴かれるのはなにも「アカン」部分だけではない。しかも、「アカン」部分を酒によって暴かれるような人は、シラフの姿にもアカンが滲み出ている。若干出ている。

つまり、私たち(酒の前に酒を飲む人々)が、酒をきっかけについ見せてしまう部分、つまり「人が好きである」「本当は陽気である」という部分も、同じように、普段の自分からも滲み出ているのではなかろうか。

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それに気づいたきっかけがある。つい先日、第三形態(泥酔状態)になったとき。以下、おおよその会話文。

私「ああまた酒鬱になる〜」
友人「なんで?」
私「ほんとはあんな喋るつもりじゃなかったのに〜」
友人「なんで?」
私「シラフで会った時別人だと思われる〜」
友人「え?全然普段と一緒だよ」
私「え?」

ということがあった。その後、夢かもしれないと思い別の人(3人ほど)にも聞いてみたが、答えは一様に「そんな変わらん」というものだった。つまり、ゴジラはゴジラ、陽気か陰気かの違い。だがそれも若干にとどまる、ということだ。

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「お酒との距離感」というテーマにのっとって、ゴジラのみなさまに言いたいことは、「どうせ普段とそんなに変わらないのだから、酒の前に酒を飲むことを減らしましょう」ということだ。

…自分の人生のテーマにしたいと思う。