当たり前って何だろうか?
朝早くから電車に乗って授業へ向かうこと、金曜日には友達と力の限り飲み明かすこと、20時に帰宅する旦那さんの為に毎日晩御飯を作ること、毎朝子どもの泣き声で目を覚ますこと。
休めば心配してくれる職場があること、くだらない話を聞いてくれる友達がいること、自分を愛してくれる家族がいること、頼りになるパートナーがいること。
もっと大袈裟にいうと、こんな風にケータイ画面を見ていること、毎日食事をすること、自分の名前を呼んでくれる人がいること、こうやって生きていることなんかも当たり前の日常。
だけど、それが当たり前なんかではないということに気づいた4年間だった。

私は"井の中の蛙"だったように思う。仕事を辞めるまでは。
とびきり恵まれたわけではないけれど、穏やかな環境で育ったと思う。
ラブラブな訳ではないけれど仲は悪くない両親、頻繁に連絡を取り合う良好な家族仲。
周りの友達も似た様な環境で育った子が多く、みんな揃って大学へ進学後、一般企業に就職。
そんないい意味で平凡な人生を歩む子が多かった。
幸せな方だとは思っていたけれど、それが"普通"だとも思っていた。
それ以外の世界を知らなかったから。

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仕事を辞めたのがちょうど4年前。そこから私の世界は大きく広がった。今までの"普通"ではない世界をたくさん知った。
中学を出てすぐに働き始めた人、兄弟の連絡先すら知らない人、友達が1人もいない人、犯罪に手を染めたことがある人。

私はそんな話を初めて聞くたびに驚いたけれど、意外とたくさんいるようで今ではもう何も思わなくなってしまった。
自分自身でもたくさんの世界を見た。

名だたる高級ホテルで1人で過ごす夜は、どんなに良い部屋も人の声が聞こえる幸せには敵わないと知った。そこで出会った人生の勝ち組と言われる人たちは、お金はあるけれど、時間や自由がなかったり、私には想像し難いほど大きな責任を背負っている事を知った。

家もなくネットカフェの椅子の上で過ごす夜には、布団で眠れるありがたみを知った。
そこで出会った人達を通して、守るモノがある人の強さを知った。

コロナのせいで世界だって変わった。
来年見に行こうと決めた花火大会はしばらく行われなかった。
すぐに行けていたはずの韓国への旅行が行けなくなった。
飲み会も、仕事も、学校も、当たり前だったことが何一つ当たり前じゃなくなった。
そうこうしているうちに消えた命もあった。
いつものように「また来週」なんて言っていたのにもう会えないなんて。
「これが最後かなあ」なんて冗談めかして言っていたのに本当に最後になってしまうなんて。
おまけに自分の体まで言うことを聞かなくなった。
私みたいなやつはしぶとく長生きするだろうと思っていたら20代半ばで死にかけるなんて。
よく喋りよく笑う私の耳が聞こえなくなって、会話すらままならなくなる時が来るなんて。
更に言えば着々と老いゆく細胞のせいで昔のように働き詰め、遊び詰めなんてもってのほかだ。

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ありきたりなことを言うけれど、"当たり前"なんてものはない。
今はそれが当たり前だから何も思わないけれど、実は"それ"が目の前にあるって特別なことで、とってもありがたいことで、他人からすると、未来の自分からすると、心底羨ましいことだったりする。

それまではあまりにも世界が狭すぎて、当たり前が当たり前すぎて気づかなかったけれど、
たくさんの人に出会い、様々な世界を見ることで、それらが当たり前ではないことに気づいた。

だから、「どんな小さなことでも目の前のことに感謝しよう」
そう思えるようになった。少し大袈裟かもしれないけれど、4年前と大きく変わったことは、そんな風に思えるようになったことだと思う。
いつも気にかけてくれる家族や友達がいること、お布団の上で朝を迎えること、帰る家があること、電車に乗れること、気兼ねなく出かけたり出来ること、コーヒーを飲めること、言い出せばキリがない。
けれど、そんな全ての"当たり前"が"当たり前ではない"のだと思うと、平凡で何もない私の人生も"有難いもの"だなと、思えるようになった。
また4年が経つ頃には家族が増えていたり、はたまた減っていたり、当たり前の日常は大きく変わっているだろうけれど、それでも"自分が持っている当たり前"に感謝する気持ちは忘れずに過ごしていたいと思う。