十六歳の夏、初めてバーに立ち入った。客としてではなく、アルバイトとして。
雑居ビルの七階のライブバーは、生ぬるく仄暗い都会の中に浮かび、その存在は掴み所のない夢のようだった。
◎ ◎
全てが美しく見えた。電源を入れられるのを待つダーツマシーンが、壁の落書きが、無言のドラムセットのシンバルの光が、ラベルを誇らしげに巻いた幾つものウイスキーボトルが。押し黙った備品に見とれながら掃除を済ませ、氷を割り、看板を下ろし、黒いサロンを巻いてカウンターに立つ。後はバーテンダーの横で微笑む。十六歳の女の子が出来る仕事というのはあまり多くなかったのだ。法に従い、未成年の私の勤務は二十二時に終わる。酒が回り、綻び始めた客の顔を尻目にバーを後にする。
家へと走る電車の蛍光灯の白々しい明るさがどうにも嫌だった。同じ車両に乗り合わせているのになんの人間関係も芽生えず下車していく人々も、窓を曇らせている整髪料の跡も、直角すぎる座席も、他人行儀で腹が立った。
夏は終わり秋になったが、私はまだ十六歳だった。帰りの電車の中、スマートフォンを開くとメッセージが来ていた。私が一方的に好意を寄せている男性からのものだった。どう頑張っても片想いを断念せざる終えないような内容だった。
頭が白く冷え、座席の足元から吹き出す暖房が耐え難く熱かった。熱風から逃げるように、降車したことのない駅のホームへと飛び出した。
◎ ◎
知らない駅の改札は私によそよそしい。歩きなれない町の人々は私によそよそしい。閉店後の小綺麗な店の灯りは私によそよそしい。ひたすらバーを目指して歩いた。
雑居ビルのエレベーターから見える街は、見たことのない深い夜の中にあって脚が震えた。
少し躊躇い、重いドアを押す。
「いらっしゃい……――ちゃん!?」
大きい目を更に大きく開いたバーテンダーのHさんが私を迎えた。
「なに、帰ってきちゃったの?……まぁ、いいや。座りな」
私はスツールに腰掛け、居心地悪く黙り込んだ。私はHさんのことが少し苦手だった。寡黙で、長い髪をきっちりと一つに束ね、日常的に酒を飲む職業にも関わらず濁りのない鋭い眼光が怖かった。
「そんくらいの歳なら夜うろつくこともあるわ」
Hさんは、若いからといった理由で頭ごなしに否定することは決してなかった。
私は訥々と、小さい失恋の話をした。少し離れたスツールに座ったHさんは私の話に耳を傾け、時々鋭い相槌をうった。話を聞き終わると、まだ長い煙草を灰皿にぎゅっと押し付けた。始発電車はまだまだ先だった。
◎ ◎
「お隣行くか」
よく分からないまま大きくうなずく。
「今回だけだよ」
「お隣」は、雑居ビルの真横のバーだった。少し昔の洒落た商業ビルという佇まいの建物の四階にあった。内装は真っ黒で幾つもの大きい水槽が青く鈍く光っていた。
「H君……と噂の――ちゃんですね」
遊園地のマジックハウスのような、全貌が掴めない店の奥から、男――Iさんが現れた。シャツもベストもサロンも真っ黒で、店の一部のようだった。
「うん、ちょっと飲ませて」
カウンターに座ると小さいグラスが三つ置かれた。
「――ちゃんは酒以外でね」
Hさんは灰皿を引き寄せ煙草に火をつけた。
Iさんは一つに並々とコーヒーを注ぎ、二つを同じ量のウイスキーで満たす。コーヒーのグラスの上にウイスキーのボトルを浅く傾けようとする。
「てめぇ、ぶっとばすぞ」
「冗談です」
Iさんは軽く笑いボトルを締める。
◎ ◎
「――ちゃん、眠そうですね、飲みが足りないんですよ」
「だって、アルコール飲んでないですもん」
私はちらりとHさんを見る。
「カフェインでもちゃんとトべるんですよ、泰平の眠りを覚ます蒸気船」
Iさんは布巾でカウンターを拭う。曇り一つないカウンターを。
「たった四杯で夜も眠れず……知ってる?」
Hさんはまた、長い煙草を消す。
知っている。教科書の端に小さく書かれていた。
「カフェインでトびましょう、乾杯」
小さな杯を一口で空ける。コーヒーは冷たくて心地が良い。
何十杯のウイスキーとコーヒーが干された。どのくらいの時間が過ぎたのか分からない。何を、どういう順序で話したのかも覚えていない。店内の時間の進みは一方から他方に進む直線ではない。
◎ ◎
店を出ると街は朝で、突然水槽を移された魚のような場違いを感じた。
「真っ直ぐ帰るんだよ」
HさんとIさんは怪しい足取りで明るすぎる街に消えた。
Hさんも私もバーを辞めた。四年で何もかもが変わった。
満を持して二十歳を迎えた私は、一人で「お隣」へ行った。
「ああ、――ちゃん、いらっしゃいませ」
真っ黒な店で真っ黒な制服を着たIさんが出迎えた。まるで、四年前の夜の次の日のように。ウイスキーのショットは胃に収めてもなお、くっきりと現実を主張する味だった。
そこから私は「お隣」に通った。数えきれない杯を干し、数えきれない嘔吐をした。それでも飲み続けた。気味が悪いほどの執着で。
再びHさんとIさんと私で飲むことはなかった。二十歳になった私が酒と上手く付き合うには、十六歳の思い出はあまりに美しすぎる。