会えるかもと思ったらワクワクして、会えたらラッキーで、嬉しくて、ちょっとときめいて。もし会えなくても次の機会が楽しみで。
そんな「推し」という存在が、コロナ禍以降のここ4年ほどで、私の人生にはたくさんできました。

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中途入社で同期のSさん、取引先のHさん、仕事の昼休みに通っているチェーンのカフェのアルバイトっぽい女の子、駅前のコンビニの夜勤の店員さん、犬の散歩ですれ違うおばあちゃん…などなど。

日々の暮らしの中でいたるところに「推し」を見つけて、それを愛でながら過ごす毎日は、たとえ普通の一日であってもキラキラと輝いて見えて、私って人生楽しんでるなぁと感じます。

周囲を愛して、自分と他人の違いを楽しみながら生きるなんて、少し前はそんなふうには考えられませんでした。
20代中頃までの私は、いろんな人に嫉妬して、いつも誰かと自分を比較していて、自分が一番可愛くて、誰かを蹴落としてでも「自分が」「自分が」と生きていました。

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そんな考え方が変わったのは、ジャニーズのA.B.C-Z塚田僚一さん(以降、塚ちゃん、と書かせていただきます)という、私にとっての超特大級の「推し」を見つけられたからだと思います。
オタクのザレゴトかもしれませんが、A.B.C-Z塚ちゃんへの推し活を通して、私は自分の心が豊かになり、世界が広がったと思っています。

初めて行ったA.B.C-Zのコンサートで、私は塚ちゃんのある言葉に衝撃を受けました。
観客が順番にペンライトを灯すという演出で、塚ちゃんは客席に向かって大きな声でこう叫んだのです。

「持ってない人は、心のペンライト灯してね!!」

買ってね!って、言わないんだ…
目の前にいるのは、少なくともA.B.C-Zに興味があるからコンサートに足を運んだ観客で、ペンライトは通販でも買えるのに。
次に来る時は持って来てねー!とか、そういうことも言えるのに。

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その後も、主演舞台が決まった時のブログには、頑張りますという抱負と、今回来れない人たちのために必ず次に繋げるよという言葉が綴られ、グループの冠ラジオでは、自分のことを面白おかしく話しはするけれど、誰かを貶めて笑いをとるようなことは決してせず。

バラエティ番組では、たとえ自分がキツイ(なぁと、テレビの前の私はそんなふうに感じた)いじりを受けても、見ている側が不快に思うような受け答えはせず、困ったようにニコニコ。スポーツ番組で結果を出した時には、「やったー!」なんていう勝利の雄叫びの前に、たった一言、大声で「ありがとう!」

学生の頃、仲のいい友達がアイドルを好きになったことがありました。
私がその子に「そのアイドルのどこを好きになったの?」と聞くと、その子は「性格」と答えました。

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顔とか、歌とかなら分かる。けれど「性格」って言われても…
目には見えない、ましてや芸能人が売り物として見せているほんの一部分を切り取って「性格が好き」って言われたって…。

私は「そうなんだ、優しそうだもんね」と、その時は思ってもないようなことを答えたと思います。

でも、塚ちゃんへの推し活を通して、性格やその人の生き様は、目に見えるようになるものなのだと知りました。
努力のあとは歌声に。
我慢強さは指の節に。
優しさは目尻の皺に。
塚ちゃんの「性格」が、私の目には見えるようになりました。
人は、人の生き方の美しさに心が揺さぶられることがあるのだと、初めて知りました。

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「推し」の見せている一部分を「オタク」の私が享受しているように、私もまた普段の生活の中で臨機応変に切り替えながら、自分の一部分を周りの人に見せて、暮らしています。

「同僚」の私。
「取引先」の私。
「客」の私。
「犬の飼い主」の私。

それが私の全てではないけれど、人間だから、全てを完璧にすることは到底できないと分かってはいるけれど、せめて誰かに見られているところくらいは美しくいたいと思うようになりました。
他者と比較し優劣をつけ、誰かに嫉妬するよりも、その違いごと愛して面白がって生きる方がよっぽど楽しく、自分らしいと、30歳を越えてから気付きました。

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美しく生きていくために、私には足りないものがたくさんあります。それを探しながら、暮らしを彩ってくれる「推し」たちに心をときめかせ、自分という人間を時間をかけて磨いていく。

そんな私の生き方も、いつか誰かの目に見えるようになったらいいなと未来に希望を持ちながら、私は今日も「普通の一日」を積み上げていこうと思っています。