10杯、20杯とお酒を煽る女。あなたの目には、どんな風に映るだろうか。
失恋の傷を慰めるため?仕事のストレスを忘れるため?きっと、何らかの理由があって飲んだくれているのだ、と多くの人間は考えるだろう。
しかし、それは大きな間違いだ。その女は、ただただ、お酒が好きなのである。
私は、かなりのお酒好きだ。なぜ好きかと問われれば、美味しいからという単純な理由以外、返答のしようがない。
知識としてお酒に詳しい訳ではないけれど、口にするその液体の美味しさを、日々ひしひしと感じている。ビールも、日本酒も、ウイスキーも、ワインも、リキュールも。それぞれに違った美味しさがある。
合う料理も違う。特に好きな組み合わせは、焼き鳥とワイン。これは、一緒に食事をした年上の方に教えて頂いた組み合わせなのだが、一見ミスマッチなアルコールとの相性に感動を覚えた。
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私は、18歳まで、3人の大人と共に実家で暮らしており、大人達は必ず、晩御飯の時にお酒を飲んでいた。そのため、お酒とは、夕食の定番メニューのうちの一品に過ぎない、というのが私の幼い頃からの認識であった。
快楽の手段でもなければ、ストレス解消の道具でもない。ただの食品。そんな認識のせいか、お酒に憧れを抱くことなく育ち、ハタチになれば、当たり前にお酒を飲むようになった。
飲み始めてみれば、その美味しさは勿論のこと、自分の認識と世間のずれにも気が付いた。私にとって、お酒はとても身近な食品であり、それが良いとも悪いとも考えたことがなかった。
しかし、家族が毎晩お酒を飲むという環境は、多くの人の目には「よくない」ものとして映るらしい。そう感じるようになったのは、大学生になり、お酒に関する話題が急激に増えたことが原因だ。
お酒を飲む飲まない、アルコールに対する耐性。これらの話題は、基本的に家族の話に繋がっていく。アルコールに対する耐性は、遺伝による所が大きいので、会話の流れとしては当然なのだが、私の家族の話をすると、とても驚かれるのだ。
「お母さんも毎晩飲むの!?」とか「親、やんちゃな感じなの?」とか。驚かれることは別に構わないのだが、たまに明らかに引いたような態度を見せる人もいる。確かに珍しいことなのだろう。だからと言って、一括りに「よくない」と捉えなくたっていいのに。
私自身のお酒好きに対しても、批判的な人間はいる。女の子でお酒が強いのはなんだかなぁ、というような反応をされることもある。
自分の好きなものを楽しんでなにが悪いのか。他人に迷惑をかけるような飲み方をしたことは一度もないし、節度を持って楽しんでいる。批難される理由はないはずだ。
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そんな風にちょっぴり残念な思いをしたこともあるが、お酒を飲む前には気づくことのなかった魅力を知ることもできた。
それは、お酒の楽しみ方には色々な種類があるということだ。大人数の飲み会でワイワイ盛り上がるために飲むもよし。サシのご飯で、普段よりちょっとディープな話をしたい時に飲むもよし。ドラマを観ながら、ひとりでぼーっと飲むもよし。ふらっと居酒屋に出向くもよし。
もしかしたら、お酒には、ただの夕食の一品には収まりきらない魅力があるのかもしれない。夕食の一品に過ぎないはずだったお酒。その本当の姿は、ただの一品の枠を超えた特別な存在なのだろう。
こう記しているうちに、私にとってのお酒とはお米に似た存在である、と思えてきた。
基本的には白米として食卓に並び、時々チャーハンになったり、特別な日にはお寿司に姿を変えたりする。1日3回食べることもあれば、体重が気になって数日間食べないこともあるお米。お酒は、そんなお米に近い存在なのではないか。
ひとりきりの食卓にも、大勢が集まる居酒屋にも、様々な場面に姿を現す。1缶だけ飲む日もあれば、数十杯飲む日もあるし、一滴も飲まない日もある。食品を食品で例えることが、食レポ界のタブーを冒したとしても、お酒との距離≒お米との距離、という表現が私にとって最もしっくりくるのだ。