私は今、大学4年生だ。
2019年、私は受験勉強に必死だった。とある教授のもとで勉強したくて、来る日も来る日も受験勉強に精進していた。当時の私は、そこで学べないなら、大学に行く必要はないとまで思っていた。結果は虚しく、私は周りの大人に説得されて出願していた後期の大学に入ることになった。今までの自分が全て否定されたような気持ちになったし、新しい目標も見つけられなかった。
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私はもぬけの空になりたかった。誰とも会いたくなかった。しかし、私はきょうだいがたくさんいる家庭の長子で、家族に心配をかけるわけにはいかない。両親が共働きなので、家事をこなす必要もあった。私は普通に振る舞わないといけなかった。自分の部屋はもちろんないから一人になれない。ほんとはもっと泣きたかったし、誰かに今までの努力を認めてほしかった。私には強くなる必要があった。
幸か不幸か、2020年春、世の中は大きく変わった。コロナ感染症が広まり緊急事態宣言が出されるなど、行動が大きく制限されることとなった。描いていたような大学生活のかけらは一ミリたりともなかった。
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2020年のゴールデンウィークくらいに得点開示がきて、合格ラインまで数点だったことを知った。もちろんこの数点にたくさんの人がいるのかもしれないが、人生がこの数点、センターの問題一問でうまく行っていたと思うととても悔しかった。
私は自分の生まれ持った才能が皆無だから努力するしかないと信じていた。勉強をすれば学校のテストや模試の結果は良くなったから、努力は報われると信じて疑わなかった。私の努力不足かもしれないが、世の中には頑張っても報われないということを学んだ。
私は受験の失敗やコロナ感染症拡大というこの四年間の大きなイベントから、諦めることを学んだ。そして、受験が終わるまで、勉強をやっていたおかげで他に趣味はなく、空っぽな人間だということに気付かされた。そして、真面目に向き合うことができていた勉強にも「どうせやっても無駄」という思いがどこからか生まれてしまい、それまでのように真面目に取り組むことができなくなった。
授業を聞く分には知的好奇心が刺激されて良いのだけれども、知識の定着をする勉強にしっかりとは取り組めなくなった。こんなに適当でも生きていけること、成績も悪くはなりはしないことが不思議だった。容量のいい人はもっと早くに気づいて、余暇を充実させて生きていたのかもしれない。私は昔の自分が馬鹿馬鹿しく思える。
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それまでの私は、本当に諦めが悪い(よく言えば一途に粘り強い)人間だった。自分が怠けてるからよくないことが起きるのだと信じていた。周りが見えていなかった。しかし、それはとても傲慢な考えだと思った。
私みたいは何の才能もない人間が、努力だけで何でもできるようになるんだったら、世界中の才能に溢れた人たちが、どんな困難をも穏やかに乗り越えてきただろうし、世の中をもっと良くしていたはずだ。それがそうはなっていない。
大人に近づくということは、選択していくこと。裏返すと、自分の限界を見出し、諦めていくことなのかもしれない。子どもの頃、キャラクターになりたいなどと憧れていた自分が懐かしい。