世の中はなんて静かなんだろう。
私は、ふと、村田紗耶香さんの「コンビニ人間」の1節を思い出した。
「『お客様』がこんなに音をたてる生き物だとは、私は知らなかった」

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人間のいない街は驚くほど静かだ。オープン前のコンビニと同じく、まるで作りもののようで、これまでとは違う世界に迷い込んでしまったのかもしれないと、私を不安にさせる。私自身も例外なく、様々に音をたてる人間である。それなのに、自分でたてる足音は、すぐに街の隙間へと吸い込まれていってしまうのだ。

2020年の奈良は、異様な雰囲気を纏っていた。寂れた温泉街のような、盛者必衰の理を感じさせるような、そんな雰囲気。季節は春だというのに、街はどこかツンとしていて、冬のようなそっけなさを感じたのだった。

奈良のメイン通りを歩いてみても人の姿は殆どなく、しんとした空気が街中を満たしている。これほど静かな道を歩くことになるなんて、全く予想していなかったなぁ、と私は思った。社会の空気が変わって、みんなの生活も変わって。夢にまでみた一人暮らしの始まりは、期待していたものとは大きく異なっている。大学進学をきっかけに移り住んだ奈良。中学時代の修学旅行で訪れた東大寺や奈良公園から、徒歩数分の距離にある私のアパート。大学生になった私。距離ばっかり近くて、身近じゃない空間。私の新たな拠点は、なんだかモノクロに見えた。実際のところ、視界には、満開の桜が誇るピンク色や興福寺の赤色が映っていたりしたのだが、感覚として、私の心に映ったのは、白と黒だった。

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コロナの影響で大学の授業も始まらず、時間の有り余っていた私は、よく散歩に出かけた。観光地とは言え、自然が豊かで、人口の少ない奈良は、歩くのにもってこいだった。人とすれ違うこともほとんどないため、ただひたすらに歩くことができた。そんな日々の中で、私はある気付きを得ることとなった。目から受け取る寂しさよりも、耳から受け取る寂しさの方が大きい。そんな気付きである。誰もいない道を歩くことより、誰の音もしない道を歩くことの方が、孤独を感じる。コロナ前には、きっと、人々の音で満たされていたであろう道を歩きながら、私は考え事をした。人間がざわざわと立てる音が、自分にとっては、大切なものだったのだろうか、と。

何も考えずとも、街は音で満たされているのが当たり前で、生活には常に音が溢れていた。無意識のうちに、そんな当たり前を取り戻そうとしたのだろう。コロナ禍に置かれた私は、音を求めた。部屋に置かれた機器を用いて、まるで冒険家のように、手当たり次第、音を探した。実家からもってきたラジカセで、一日中バンドのCDを流したり、ただひたすらに、ラジオのチャンネルをザッピングしたり。YouTubeで知らない人がダラダラ話す動画を観たり、ポッドキャストで色々な芸人のラジオを聴いたり。意味のある音たちは、私の孤独を紛らわしてくれたし、コロナ禍での日々の楽しみになってくれていたと思う。それでも、やっぱり、人間の出す、他人にとっては無意味な音が恋しかった。

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奈良にやってきて約4年。コロナもだいぶ収まり、現在の街には観光客の姿が急増した。沢山の外国人観光客がいて、引っ越してきた頃とは、全く違う様子である。街を歩けば、いろんな言語が飛び交い、どこにいても人の足音が聞こえる。コロナ禍を経験する前には、気にも留めなかった尊い音。人間の発する音が、こんなにも愛おしいものだったなんて、今まで知らなかった。私の生活は、なんてことのない音に支えられていたのだ。お喋りな私は、自分の発する声ばかりに気を取られ、世の中に溢れる些細な音を見落としていたのかもしれない。

意識せずとも体内に沁み込んでいく社会の音。生活の音。人間の音。そんな音に私は支えられていた。そして、これからも支えられていくのだろう。