忍足みかん、として表舞台に出る時の私のスタイルは、袴である。
矢柄の、いわゆる漫画「はいからさんが通る」のようなデザインの袴が私にとっては制服のようなものでドクターが白衣を着るように、コックさんがエプロンをつけるように、私はこの袴に袖を通すことによって「本名の自分」と「忍足みかん」のオンオフの切り替えが出来ているように思う。

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2019年に「#スマホの奴隷をやめたくて」を発表し晴れてエッセイスト・忍足みかんとして産声をあげたばかりの頃は服装のことはあまり意識していなかった。
そもそも自分は表に出るのが得意ではないし、私が人目につくことで不快感を感じる人もいるのではないか?出るべきでもないようにも思えたけれど、表に出れば本の売上も変わるかもしれない、何もせずに本が売れるほどネームバリューのような力がない私……。だけれど編集さんたちはそんな私を信じて本を出させてくれたのだから……少し頑張ってPRに身を投じなくてはいけない……とがむしゃらに表舞台に足を伸ばした。その際はフォーマルならばいいかな?位しか意識していなかった。

けれど有難いことに表に出る機会が増えて、服のことを考えざるを得なくなり頭を抱えた。
普通の服ではどうしても「本名」の私と陸続きになってしまう。
「本名」の私と「忍足みかん」は確かに同じ体を有するのだけれど、「エッセイストの忍足みかんです」と声に出す回数が増えるごとに、少しずつ似て非なる存在として離れていっていた。

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「本名の私」でいる時に本の制作秘話を尋ねられてもうまく反応が出来ない程、「ペンネームの私」は近くて遠く、遠くて近い。
だって「本名の私」は地を這う人間で、価値がない、暗くて常に自分を卑下している。一生語ることはないけれど茨だらけな道を歩いて生きてきた。けれど「忍足みかん」は有り難いことに「先生」だなんて偉そうながらも声をかけてもらえる、取材をして貰ったり、時には人前で話すこともある。
でもそれは「本名の私」の力ではなく、編集さんや、読者さんらたくさんの人がいるお陰で成り立っている。私は特別な存在のように見られるかもしれない。でもそれは全て私ではなく誰かの力があってそう思われているだけのことで。
「忍足みかん」としては充実してるようにみえても「本名」の私としては空っぽで、そこには大きな溝がある。この溝は私を悩ませた。

「忍足みかん」として称賛を受けても、いっときの多幸感を味わっても、それは「本名」の私の「不幸せ」が息を潜めているだけの……休息期間なのでは?と怖くなることもあった。「本名」の私は幸せというものが怖くて、「忍足みかん」との溝が深まることも恐かった。
その溝を埋めたのは、衣装、「袴」だったのだ。
溝を埋めるには完全に「忍足みかん」を切り離そう、キャラクター化してしまおうと、コスプレのように形から入ろうと、まず和装が思い浮かんだ。
こけし顔の私はドレスの類は似合わないけれど、和装ならば似合わなくとも、1ミリ位しっくりくるのでは?と思って簡単に着られる和装を探した。私は着付けが出来ないのである。
高校の授業で浴衣の着付けは学んだものの、不器用さゆえに習得には至らなかった。

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「ゆる袴」
普段私が纏うあの袴は、実は着付けがいるような袴ではなく、和装を気軽に楽しめるアイテムで上からワンピースのように被るだけで着れる。たくさん流通しているものではないので少々高価ではあったが、これからずっと着続けるならば、この溝を埋められるものならばと購入して、初めて腕を通した時、鏡を見るより早く心がしっくり来た。
「忍足みかん」と「本名の私」の陸続きの大地に大きな壁を建設出来たような感覚がした。やっと「忍足みかん」として受ける称賛が少し怖くなくなった。彼女は私であって、他人だという感覚を袴という特別な服装が教えてくれた。
袴を着ることで私は私ではなくなるけれど、その代わり「本名の私」がいくら叫んでも世に伝えられないことを訴えることが出来る。私は多数派のように健やかには生きられなくて、なんにおいても少数派……パンセクシャルで、ガラケーやレトロが好きで、摂食障がいで……。だから袴を纏ってそれを叫ばなくては生きていけない。これはいわば変身なのだ。袴を纏う、顔も背丈も声も同じ私だけれど服だけ変えれば、私ではなくなる。私ではない私が、違う景色を見せてくれる、知らない世界へ誘ってくれる。
袴に袖を通す度に思う……いつまで「エッセイスト」という肩書でいられるかはわからない……。けれど願わくばその日までこの袴と共に一人だけれど、二人三脚で歩みたいのだ。