東京に行くと、自分の持っていないものを強く実感させられる。「どうしても〇〇をしたい」というこだわりが私にはない。行きたいところもない、やりたいこともない、買いたいものもない、会いたい人もいない。こだわりのない空っぽな人間なのだと実感する。そして、みじめな気持ちになった。

私が住んでいるのは、関西の田舎と都会のはざま。少し電車に乗れば、梅田や天王寺に出られる。そんな私が東京に行く機会は2~3か月に1回ほどだ。基本的に仕事の都合で東京に足を運んでいる。

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東京に来たからと言って観光するわけではない。朝から夕方まで働いたのち、夜は一緒のチームのメンバーと食事に行く。そして、ビジネスホテルに寝に帰る。次の日も朝から働いての繰り返し。最終日は、移動に時間がかかる人もいるため昼過ぎや夕方に解散になることが多い。

早めの時間に解散すると、東京で自由時間を取ることができる。「銀座に行きたいお店があるんだよね~」「秋葉原で買い物してから帰ろうかと思う」「原宿見学してくる!」と、チームのメンバーたちは目的をもって東京の街へと向かっていく。

一方私は、特に行きたいところもやりたいこともなく、「とりあえず、東京駅で新幹線の時間まで過ごすかぁ~」と、東京駅の建物内に引きこもる。誰にも何も言われないし、おかしな行動をしている訳ではないが、自分の中身のなさが露呈しているようでひどくみじめな気持ちになっていた。

そんな私だが、「東京にしかないスタバのリザーブの店舗に行ってみたいなぁ~」とか、「築地でおいしい海鮮食べたいなぁ~」とか、思いはする。ただ、行動するほどじゃないだけで……。お金と時間をかけてまで行きたいと思えないのだ。そして、「私って、空っぽってわけじゃないのかも?」という考えがふと頭をよぎった。

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私は気づいてしまった。私はこだわりのない空っぽな人間というわけではない。金銭的なゆとりがないから、東京に来ても何もできないのだと。その答えには正直気づきたくなかった。自分の持っていないものは、金銭的なゆとりよりもこだわりのほうがマシだった。何もできないよりも、何もしないほうがマシだった。

みじめさは、自分の中身のなさに感じていたわけじゃなかった。自分が、数駅分の電車代を出すのも渋るほど金銭的に余裕がないことに感じていたのだ。東京という街は、自分が持っているものと持っていないものを丸裸にする。そして、他人の持っているものをまざまざと感じさせられる。私は東京を残酷な街だと思った。

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そんな東京という街とも、今年で4年の付き合いになる。4年の間に、私の金銭的なゆとりは大きく変わった。以前よりもゆとりができていた。だけど、結局、中目黒のスタバにも行っていないし、築地にも行っていない。金銭的にゆとりができてから気づいたが、私は貯蓄をすることが好きみたいだ。東京でお金を使うより、口座にお金がたまるほうが幸せだと思っている。

今、私が思う東京という街は、価値観や優先順位がはっきりわかる街ということだ。東京という街から、「君は何がしたいの?」と問われているように感じる。過去の私は、答えられないことに居心地の悪さやみじめさを感じていたのだろう。今の私は、過去と同じ何もしないという行動でも、「貯蓄がしたい」と明確に答えられるようになった。はっきり答えられるようになってからは、案外居心地のいい街だと感じている。

過去の私は、「東京という、いつもとは違う特別な街に来たのだから、いつもと違うことをしよう」と、心のどこかで思っていた。だからこそ、そうできない自分をみじめだと思っていた。これからは、いつもの自分の価値観のまま、いつもと同じ優先順位で過ごしていこうと思う。