現在私は様々な方々のお陰で、縫製工場で障害者枠のパート社員として働いています。
一応は洋裁の専門学校を出ているとはいえ、自分が進みたい分野の専門学校は他にあったので、本当にやりたいことではありませんでしたが、それでも専門学校卒業から10年近く経過してから専門学校で学んだ分野で生活ができるとは思えなかったので正直とても驚いています。

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洋裁の専門学校卒業後は工場や清掃員などの仕事をしましたが、どれも長続きしませんでした。
両親からの反対を受けながらも20歳で障害者手帳を取得したので、一応は障害者枠での仕事でしたが、障害への理解は皆無で、働けば働くほどに病状が悪化しました。遂に主治医から「就労は出来ないから、すぐ生活保護の申請をしなさい」と言われて24歳の夏に生活保護の受給が始まってからは、4年半近く無職の引きこもり生活が始まりました。

事情があって詳細は書けませんが、命の危険が迫っていた事もあって生活保護の申請は思ったより簡単に出来ました。
若い生活保護受給者は楽してお金を貰って一日中遊んで暮らしているというイメージが世間にはあるかもしれませんが、毎日遊び歩けるほどのお金は貰えませんし、そもそも私の場合は貧困ビジネスのNPO法人に家賃とは別に「利用料」という名目で毎月生活保護費から数万円を徴収されていたので、本来使えるはずの支給額よりもだいぶ少ない額で生活していました。

おかしいと思いながらも、それについて意見したら住む場所も無くなってしまうかもという怖さもあったので、貧困ビジネスのNPO法人に搾取され続けていました。

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後で知りましたが、そのNPO法人は法律のグレーゾーンを悪用して運営していて一応はギリギリ合法という、手口が巧妙すぎて弁護士や警察も動けないとのことでした。

貧困ビジネス施設にいると社会復帰する気力も失って「一生このままでいいや」と思い始めていましたが、2022年の4月に担当のケースワーカーが変更になってから事態が動き始めました。
一つは縫製会社が経営している縫製の作業所を勧められたこと、二つ目は貧困ビジネス施設から引越が出来たことです。
引越先のアパートは貧困ビジネス施設の半額以下の家賃でその他に好条件なので、生活保護を卒業してからも住み続けています。

作業所への通所は週1日の2時間勤務から始まって、徐々に勤務日数と時間を増やして、週5日の5時間勤務が可能になった頃に作業所での仕事から本社での障害者雇用枠での社員にステップアップするという流れだったので、社会復帰しやすい環境でした。

現在働いている会社と、その前段階の作業所では、私のこれまでの人生では考えられないほど親身になって対応して頂けて、人生29年目にして初めて現実社会の一員になれたと思っています。

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これまでの人生で学校や会社ではどこに行ってもいじめや嫌がらせにあって当然だったので、それが当たり前だと思っていて特に辛いと感じたことはありませんでしたが、一番辛かったのは本来ならば理解者になってほしい両親に全く理解が無かった事です。

両親からは私が学校でいじめられても「お前が悪い、不登校なんて絶対許さない、車出してやるからありがたく思え」と苦登校を強いられたり、虫歯や視力低下など体の不調があっても病院に連れて行ってもらえないなど、大人になってから思えば虐待に該当するような行為もありました。
当時はそれが虐待だとは思わなくて、自分が悪いから耐えようと思い続けて、本の世界にしか居場所はありませんでした。

現実世界で辛い思いをするくらいならば仕事や学校などには行かずに本を読んでいれば幸せだと思っていましたが、今の縫製工場で働くのはとても楽しいですし、頂いた給料で子供時代に買えなかった欲しかったものを買ったり、生活保護を卒業出来たりと、5年前の自分には考えられないくらい幸せな生活ができているのは、縫製工場の社長と、縫製工場へのファーストステップとなった作業所を紹介してくれた生活保護ケースワーカーのAさんのお陰です。